第128話 闇の理
意地を張って立ち続けていられたのも、そう長くはなかった。エルフィの視線は相変わらず裾やリボンのあたりを行き来していて、そのたびに顔が火照っていく。
「すみません……やっぱり、着替えてきます」
頬を赤く染めたまま、すずなは逃げるように踵を返した。幾重にも重なった裾が揺れるたび、赤いレースがちらちらと覗く。一刻も早く、この居た堪れない格好から抜け出したい一心だった。
「そのままでも構わんぞ」
背中に投げかけられたエルフィの声には、まだ笑いの余韻が残っていた。どこか名残惜しそうな響きが混じっているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「いえ、着替えてきます」
振り返ることなく、すずなはきっぱりと答えた。これ以上からかわれてなるものかという、ささやかな抵抗だった。
「そうか」
あっさりと引き下がったエルフィを残して隣の家へ駆け込み、手早く元の服に着替えて戻ってくる頃には、すずなも幾分すっきりとした顔になっていた。
「お待たせしました」
「気は済んだか」
「済みました……もう、その話は」
少し拗ねたような口調で話を切り上げ、すずなは表情を引き締めた。今日から始まる修行のことを思えば、先ほどまでの恥ずかしさも次第に落ち着いていく。
「では、本題に入る」
からかうような響きの消えたエルフィの声に、すずなは姿勢を正した。
エルフィは家の脇に置かれていた木の椅子を二つ引き寄せ、一つをすずなに勧めた。座って話すのは、これまでの修行にはなかったことだった。それだけ、これから伝える内容は、火や風とは性質の違うものなのだろう。
「闇は、火や風とは扱い方が根本から異なる」
エルフィはゆっくりと語り始めた。
「火は生み出す力、風は借りる力だと教えたな」
「はい」
「闇はそのどちらでもない。強いて言うなら、覆い隠す力。あるいは、切り離す力だ」
「覆い隠す……」
言葉を繰り返してみても、これまで学んできた二つの属性とはあまりに違う響きに、すぐには実感が湧かない。
「光を遮り、音を絶ち、気配を消す。闇の本質はそこにある。派手な攻めの力を求める属性ではない」
「では、Moon Returnの黒い霧は……」
「あれは光を呑み、視界そのものを塗り潰す。相手の知覚を奪い、こちらの姿を覆い隠す。攻めているように見えて、根にあるのは隠す力だ」
言われてみれば、あの黒い霧は何かを打ち破るというより、周りの光と音を呑み込んでいくようなものだった。打ち破るのではなく、境目をぼかしていく。胸の奥に残っていた感覚に、ようやく言葉が与えられた気がした。
「闇を極めれば、気配を絶ち、姿を隠し、相手の知覚そのものを欺くことができる。派手さはないが、使い方次第で戦いの流れを大きく変える」
語るエルフィの声には、いつもより力がこもっていた。
「基礎の第一歩は、闇を纏うことではない。まず、自分の気配を薄める感覚を掴む」
「気配を薄める、ですか」
「そうだ。闇の魔力は、周りとの境目を曖昧にする性質を持つ。まずはそれを、自分自身に使う」
エルフィは椅子から立ち上がり、すずなの前に立った。
「見ていろ」
次の瞬間、エルフィの輪郭が揺らいだように見えた。姿が消えたわけではない。けれど視線を合わせようとすると、なぜか焦点がぼやける。意識の端で捉えようとするたびに、その存在がするりと逃げていく。
「今、何が……」
「気配を薄くした。姿は見えていても、意識に留まりにくくなる。これが闇の初歩だ」
エルフィの姿がくっきりと戻ると、すずなは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「難しそうです……」
「火や風のように目に見える変化がない分、掴みにくくはある。だが感覚そのものは、決して特殊なものじゃない」
エルフィは改めてすずなの正面に向き直り、短く命じた。
「目を閉じろ」
言われるままに目を閉じると、周りの音がいつもより鮮明に感じられた。草の擦れる音や遠くの鳥の声、そしてすぐ近くのエルフィの息遣いまでが聞こえてくる。
「自分の形を意識してみろ。肌の表面、髪の先、指の一本一本まで、はっきりと感じ取れ」
肌に触れる空気の感触や、髪が肩に触れる感覚、指先のかすかな痺れを、体の形をなぞるように一つずつ確かめていく。そのうちに、自分という存在の縁が、これまでになくくっきりと浮かび上がってくる。
「掴めたら、その縁を少しだけぼやけさせろ。境目を、あえて曖昧にする」
「境目を、曖昧に……」
縁の形を保ったまま、そこをそっと滲ませるように意識を緩めていく。これまでの修行とは真逆で、力を抜く方へ集中しなければならなかった。
何も起きないように思える時間が、じわじわと過ぎていく。だが不意に、自分自身が周りの空気にすっと溶け込んでいくような、奇妙な感覚が訪れた。
「あ……」
「感じたか」
目を開けると、エルフィがすぐ側でその様子を見つめていた。
「なんだか、変な感じがしました。自分が薄くなったような」
「それでいい。最初は、それが分かれば足りる」
エルフィは口元を小さく緩めた。
「確かめてみるか」
「確かめる、ですか」
「その感覚を保ったまま、動かずにいろ。目は開けたままでいい」
すずなは言われた通り、さっきの感覚をもう一度呼び起こした。自分の縁を、そっと滲ませる。周りの空気と、自分との境目を曖昧にしていく。
エルフィは何も言わず、少し離れた場所へ移った。
しばらくして、軒先から一羽の小鳥が舞い降りてきた。茶色い羽をした小さな鳥が、ちょこちょこと地面を跳ねながら、こぼれた草の種をついばんでいる。
小鳥は少しずつ、すずなの方へ近づいてきた。椅子の脚のすぐそばまで来ても、逃げる気配はない。すずなの靴の先を一度だけつついて、また種を探し始める。
すずなは身じろぎもできなかった。こんなに近くまで小鳥が来たことは、これまで一度もなかった。
ふっと、気が緩んだ。
小鳥はぱっと顔を上げ、慌てたように羽ばたいて、軒先へ飛び去っていった。
「あ……」
「驚いて、気配が戻ったな」
エルフィが戻ってきて、小鳥の消えた方へ目をやった。
「だが、靴をつつかれるまで気づかれなかった。鳥は、人の気配に一番敏い」
「それって、すごいことなんですか」
「私が初めてやった時は、近づいてもこなかった」
すずなは目を瞬かせた。エルフィにも、初めての時があったのだ。
「闇は地味だが、奥が深い。焦らず、一つずつ積み重ねていけ」
エルフィはそう言って、また椅子に腰を下ろした。
「はい」
すずなは小鳥が飛んでいった軒先を見つめた。今度は最後まで気を緩めずにいられたら、あの小鳥は肩に止まってくれるだろうか。




