第126話 選択
枝からの降り方は、翌日の課題になった。
風を足元に集め、落ちる勢いを受け止める。最初の三回は尻もちをつき、四回目でようやく膝だけで着地できた。それから数日のうちに、すずなは枝へ跳び上がることも、そこから降りることも、ほとんど迷わずにできるようになっていた。
走ることと跳ぶこと、風の修行はその両方に確かな手応えを残しつつあった。
「今日は、ここまでの総ざらいだ」
その朝、エルフィは草地の端に三つの的を並べた。
「風で走り、跳び、火で撃て。順番は好きにしていい」
「全部、続けてですか」
「実際の戦いで、一つずつ待ってくれる相手はいない」
すずなは頷き、目印の小石の前に立った。
風を纏い、地面を蹴る。背中を押す流れに乗って、一つ目の的へ一気に距離を詰めた。走りながら右手に炎を灯し、すれ違いざまに放つ。橙の芯に白を帯びた炎が、的の中心を焦がした。
そのまま足元へ風を集め、跳ぶ。宙に浮いた一瞬に、二つ目の的を見下ろして撃ち込む。着地と同時に体をひねり、三つ目へ向き直る。
最後の一発は、的の縁をかすめただけだった。
「あ……」
すずなは膝に手をついて、肩で息をした。三つとも中心を捉えるつもりだったのに、最後で間合いが崩れた。
「二つ目までは見事だった」
エルフィが歩み寄ってきた。
「三つ目は、着地の向きが甘い。風に乗ったまま体をひねろうとするから、狙いが流れる。だがそれは、これから詰めていけばいい」
エルフィは焦げた的を順に眺め、それからすずなに向き直った。
「火と風は、ここまで来れば一区切りだ」
「一区切り、ですか」
「いきなりすべての属性を修めるのは、お前でも難しい。今のお前に入る量は、ここまでだ」
突き放すような言い方ではなかった。これまでの伸びを認めたうえで、冷静に線を引いている。火と風、二つの属性をこの短い間でここまで扱えるようになっただけでも、ずいぶんと早い。それでも限りはある。エルフィの声には、それを正直に告げる誠実さがあった。
「ここから先は、二つの道がある」
エルフィは指を二本立てた。
「一つは、火と風を組み合わせる訓練を重ねて、さらに上を目指すこと。もう一つは、新しい属性を身につけることだ」
「選べ、ということですか」
「そうだ。どちらにも意味がある。正解はない」
すずなは考え込んだ。さっきの総ざらいで、火で攻める力と風で動く力を掛け合わせた時の手応えも、崩れた時の悔しさも知った。この先を詰めていけば、戦い方は確実に磨かれていく。
けれど胸の奥には、まだ見ぬ属性への興味も芽生えていた。時空魔法、火、風と、一つずつ扉を開けてきた日々を思い返すと、次の扉に手をかけたい気持ちが、自然と湧き上がってくる。
「もう一つ学ぶとしたら、何がいいでしょうか」
すずなが尋ねると、エルフィは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。その沈黙は、これまでのからかうような間とは違っていた。
「闇だ」
すずなは息を呑んだ。ここしばらく、冗談交じりに何度も聞かされてきたのに、今の声にはまるで違う重みがある。
「今度は、本気ですか」
「ああ。半分どころではない。今度は本気だ」
エルフィはすずなをまっすぐに見上げた。その目には、軽口を挟む隙のない色が宿っている。
「お前は既に、Moon Returnで闇の理に片足を踏み入れている。素養がある証だ。それに」
エルフィは一度、言葉を切った。
「先日、南の綻びを見てきた。強めた日から、外周が二割ほど広がっていた。急ぐ速さではないが、止まってもいない」
すずなの脳裏に、懐にしまわれていく紙がよみがえった。何も言わずに記録を確かめていたエルフィの横顔が、今になって重くのしかかってくる。
「これから先、お前たちが向き合う相手を考えれば、闇は決して無駄にならない」
その言葉の奥に、まだ知らされていない何かが潜んでいるように、すずなには聞こえた。南の綻びの向こうから来るものの気配だけが、エルフィの声に影を落としている。
「分かりました」
すずなは頷いた。
「闇、学びます」
「そうか」
エルフィは短く応じ、それから確かめるようにすずなの顔を覗き込んだ。
「では聞くが。お前は闇を学ぶために、本当にあの装いを身に纏うのか」
「え」
すずなは固まった。
「纏わないといけないんですか」
「紬は纏った」
「紬さんは、そういう流儀の方に習っているので……」
「クレアの流儀だ。私の流儀ではない」
「なら、纏わなくても」
「纏わなくてもいい。だが」
エルフィはそこで言葉を濁し、視線を草地の端へ逸らした。
「お前が纏うと言うなら、止める理由もない」
すずなは、先日のエルフィの呟きに思い当たった。わたしもあの服装を、と言いかけて、聞き間違いだと言い張った時のことを。あの時と同じように、エルフィの視線は落ち着きなく泳いでいる。
すずなは小さく拳を握った。
「な……纏います」
言葉に詰まりながらも、すずなはそう答えた。頭の中には、眼帯と包帯を身に着けた紬の姿がまざまざと浮かんでいる。
「本当に、大丈夫なのか」
「大丈夫です。紬さんと同じ出で立ちなら、恥ずかしくは……ありません」
言い切った語尾が、わずかに震えていた。それでもすずなは、目を逸らさずにエルフィを見返した。
「そうか」
エルフィはしばらくすずなの顔を眺めてから、やがて目元を緩めた。
「では、闇の装いを用意してやろう」
「よろしくお願いします。恥ずかしいですけど、頑張ります」
すずなが頭を下げると、エルフィは口の端を小さく上げた。
「お前も、ずいぶん変わったな」
呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな声だった。
「では、明日から闇の修行に入る。装いも、それまでに揃えておく」
「ありがとうございます」
「二着だ」
「二着、ですか?」
すずなが顔を上げると、エルフィはもう背を向けていた。
「予備だ」
短く言い捨てて歩き出したエルフィの足取りは、心なしかいつもより軽かった。




