第125話 踏み込みの先へ
翌朝、すずなは草地に立ち、体の周りに風を纏う感覚を確かめていた。
目を閉じて呼吸を整えると、昨日よりもずっと早く、あの感覚が呼び起こされる。周りを流れる空気に意識を溶け込ませれば、間を置かずに髪の先がさらさらと揺れた。一晩眠っただけで、これほど手に馴染むものなのか。すずな自身が驚いていた。
「感覚、掴めてきた気がします」
「では、今日はそれを動きに乗せる」
目の前に立ったエルフィが、短く告げた。
「まずは走る。風を纏ったまま、いつも通りに走ってみろ」
「いつも通り、ですか」
「意識しすぎるな。纏った風が勝手に後押しする。お前はただ走ればいい」
理屈を積み上げるより、まず体で覚えさせる。エルフィの教え方は、いつもそうだった。難しい言葉を並べられるより、すずなにはその方がずっと近道になっている。
すずなは少し離れた場所に小石を三つ積んで目印にし、そこへ向かって走り出した。
一歩目は、いつもと変わらない。地面を踏む感触も、蹴り出す足の運びも、体に染みついたものと同じだった。
だが二歩目、地面を蹴った瞬間に、足元から違う感覚が伝わってきた。蹴り出した力がそのまま前へ流れ、背中を追い風に押されるように運ばれていく。意思よりも先に、足が前へ前へと出ていく。
「速い……」
自分の声が、思っていたよりも後ろの方で聞こえた気がした。視界の端が滲み、目印の小石はあっという間に目の前まで迫っている。
すずなは慌てて足を止めた。急に勢いを殺したせいで、膝がわずかに震えている。
「今、何が……」
「風が、お前の踏み込みを後押しした。それだけだ」
気づけば、エルフィがすぐ隣に立っていた。同じように風を纏って追ってきたはずなのに、息一つ乱れていない。
「加速とは違うだろう」
「はい。加速は、周りがゆっくりになる感じでした。今のは、自分が押し出されている感じです」
「そうだ。時を速めるのと、風に運ばれるのは別のものだ。いずれ重ねられれば、もっと速くなる」
すずなは自分の足元を見つめた。何千回と繰り返してきたはずの走るという動作が、まるで別のものに書き換えられたようだった。
「もう一度やってみろ。今度は、風を途切れさせないように意識しながらだ」
すずなは元の位置まで戻り、呼吸を整えて風を纏った。今度はそれを保つことに意識を置いて、地面を蹴る。
一歩、また一歩と踏み込むたびに、足の裏の手応えが確かになり、風が自分の動きに寄り添っているのが分かる。最初の一回のような、振り回される勢いはない。自分の意思と風の流れが、少しずつ噛み合っていく。
目印を通り過ぎたところで速度を落とし、足を止めた。息は上がっていたが、走った疲れとは少し違う。感覚を保ち続けた分だけ、頭の奥がじんと重くなっていた。
「今のは安定していたな」
肩で息をしながら振り返ると、エルフィが頷いた。
「安定、ですか?」
「風が途切れずに続いていた。最初の一回は勢い任せだったが、今のは手綱を握れていた」
「よかった……」
すずなは胸を撫で下ろした。体の奥にはまだ慣れない疲れがあるが、それ以上に、自分の中で何かが変わった手応えがはっきりとある。積み重ねてきた修行の一つ一つが形になっていくのが、素直に嬉しかった。
「次は、跳ぶ」
エルフィの視線の先には、草地の端に立つ大きな木があった。太い枝が、頭のずっと上に伸びている。
「昨日は拳一つ分だった。今日は、あの枝まで跳んでみろ」
「え……あそこまで、ですか?」
目で測ってみても、普段の脚では到底届かない高さだった。眺めているだけで、自然と肩に力が入る。
「無理だと思うなら、それでいい。まずはやってみることだ」
すずなは小さく頷いた。これまでの試練でも、無理だと思い込んでいたことが思わぬ形で開けたことは何度もあった。Withering Roseの試練で心春を助け出した時も、Seafoam Fateの試練で紬と向き合った時も、最初から確信を持って挑めたわけではない。それでも、踏み出した先でしか見えないものがあった。
木の下に立ち、膝を軽く曲げる。走る時と同じように風を纏い、今度はその風を、跳ぶ瞬間に合わせて足元へ集めていく。押し出すのではなく、寄り添わせる。
「いきます」
地面を蹴った瞬間、全身がふわりと浮き上がった。視界が持ち上がり、遠かったはずの枝がみるみる近づいてくる。体の下から吹き上げる風に、そっと掬い上げられているようだった。
「わ……!」
声が漏れる。伸ばした指先は、枝にわずかに届かなかった。
風の後押しが収まると、体はゆるやかな弧を描いて草の上へ降りていった。膝を曲げて受け止めた着地は、思っていたよりずっと柔らかい。
「届きませんでした……」
荒い息のまま仰いだ枝は、まだ頭上にある。それでも、普段の自分ならあり得ない高さまで跳んでいた。
「いい跳びだ」
歩み寄ってきたエルフィの表情には、いつもの落ち着きの中に、確かな満足があった。
「届かなかったのは、最後の一押しだ。風に任せきりにするな。最後の一蹴りは、自分の脚で押せ」
「自分の脚で」
「風は後押しだ。跳ぶのは、お前だ」
すずなはもう一度、木の下に立った。
風を纏い、足元へ集める。そこまでは同じだった。今度は風が体を持ち上げ始めたその瞬間に、脚の力を全部、地面へ叩きつける。
さっきよりも、さらに高く体が上がった。
伸ばした両手が、枝を掴んだ。
「届きました!」
枝にぶら下がったまま、すずなは歓声を上げた。ざらりとした樹皮の感触が、指にしっかりと伝わってくる。
それから、下を見た。
地面が、思っていたよりずっと遠い。
「あの、エルフィさん」
「なんだ」
「降り方は、まだ教わっていません」
エルフィは木の下で腕を組んだまま、すずなを見やった。
「そうだな。教えていない」
「どうすれば」
「今日はここまでにしようと思っていたが、ちょうどいい。次の課題だ」




