第124話 風を纏う
風の筋を辿る感覚は、少しずつ確かなものになっていた。
草地を渡る風は、絶えず形を変えながらすずなの周りを通り過ぎていく。目には見えないその流れが、肌で辿るほどに輪郭を持ち始めていた。
「辿れるようになったな」
「はい。少しずつ、ですけど」
「では、次だ。火とは違うことを、先に言っておく」
エルフィは腕を組んだまま続けた。
「火は、自分の内から生み出すものだった。風は違う。既にそこにあるものを、借りる感覚に近い」
すずなは目を開けた。
「借りる、ですか」
「そうだ。魔力で新しく風を作ることもできるが、無駄が多い。この世界には、既に風が満ちている。その流れに自分の魔力を馴染ませる方が、ずっと少ない力で大きく動かせる」
一拍置いて、エルフィは付け加えた。
「そういう意味では、風魔法は精霊魔法に近い」
「精霊魔法に、ですか?」
思いがけない一言に、すずなは瞬きをした。
「精霊と契約した者が扱う力も、自然の中に既にあるものを借りる性質のものだ。心春が学んでいるものと、根の考え方はそう変わらない」
すずなの頭に、心春の姿が浮かんだ。火の精霊と風の精霊、二体と結んだ契約は、自分の内から新しい力を生み出すのではなく、そこにいる誰かの力を分けてもらうようなものなのだろう。離れた場所で、それぞれ違う師のもとで学んでいる二人が、思いがけないところでつながっている。そのことが、少し嬉しかった。
「もっとも、お前は精霊と契約するわけではない。その分、扱いは単純だ。だが根の考え方は、覚えておいて損はない」
「はい」
火の修行では、常に自分の内側から力を送り出していた。けれど風は、まるで向きが逆になる。既にある流れに、自分をそっと溶け込ませなければならない。頭では分かっていても、いざやろうとすると、これまで使ったことのない場所に力を入れるような心許なさがあった。
「私のやり方を見せる」
エルフィはすずなの隣に立った。
「これが、風を纏うということだ」
そう言った瞬間、エルフィの周りの空気が変わった。目に見えるものは何もないのに、肌に触れる圧が確かに違う。風がエルフィの周りにだけ渦を巻くように集まり、足元から砂埃が舞い上がった。
「今、何をしたんですか」
「魔力を、体の周りの風の流れに乗せた。それだけだ」
「それだけで……」
あまりに簡潔な説明に、すずなはすぐには理解が追いつかなかった。
「言葉で分かろうとするな。体で覚えろ」
エルフィはすずなの正面に回った。
「さっき辿った筋に、自分の魔力をそっと重ねろ。押し出すのではない。寄り添わせる」
すずなは呼吸を整え、もう一度風の筋を辿った。左から上へ抜けていく流れと、足元をくぐる低い流れを確かめてから、体の奥にある魔力をゆっくりと引き出す。外へ押し出す代わりに、流れの脇へ添わせるように広げていく。
一瞬、何も起きないように感じた。
次の瞬間、髪の先がわずかに揺れた。風向きが変わったわけではない。すずなの周りだけ、空気の流れがかすかに変わっている。
「あっ……」
「感じたか」
「はい。少しだけ」
「初日でその感覚を掴めれば、十分すぎる」
平坦な声の奥に、確かな評価があった。
「これを体全体に広げられるようになれば、身のこなしが変わる。今の身軽さに、風の後押しが加わると思え」
「後押し、ですか」
「跳ぶ時は、より高く。走る時は、より速く。踏み込む一瞬に、風が味方する」
これまでの試練で、あと一歩が届かなかった場面を、すずなはいくつも覚えている。この力を身につけられれば、あの瞬間の多くが変わっていたかもしれない。自然と気持ちが引き締まる。
「試しに、跳んでみろ。今の感覚を保ったままだ」
すずなは膝を曲げ、足元の流れに魔力を重ねたまま地面を蹴った。
体がふわりと浮いた。いつもより、ほんのわずかに高い。着地の瞬間、足の裏を下から風がそっと受け止めたような気がした。
「今の……」
「拳一つ分だな」
エルフィは素っ気なく言った。
「十分です。拳一つでも、変わりました」
すずなはもう一度跳んだ。今度は魔力を重ねるのが遅れ、いつもと同じ高さにしか届かない。三度目は早すぎて、跳ぶ前に髪だけがさらりと巻き上がった。
「重ねる間合いがずれている」
「難しいです」
「火は、灯してから保てばよかった。風は、流れが来る瞬間に乗らなければならない。早くても遅くても、置いていかれる」
すずなは頷き、流れを待った。足元をくぐる風が、ふっと強まる。その瞬間に合わせて、地面を蹴る。
体が、さっきよりも高く浮いた。
「それだ」
短い声に、すずなは着地したまま顔をほころばせた。
「無理はするな。風は繊細な感覚を要する。焦れば、かえって遠回りになる」
「はい」
「今日はこの間合いを、繰り返し確かめるだけでいい」
すずなは何度も跳んだ。うまく乗れる時もあれば、置いていかれる時もある。それでも、乗れた時の体の軽さだけは、一度ごとにはっきりと覚えていった。
ふと見ると、エルフィは少し離れた場所で、懐から折り畳んだ紙を取り出していた。南から届く記録の写しだと、すずなにはすぐに分かった。
エルフィはしばらく紙に目を落としていた。それから何も言わずに折り畳み、懐へ戻す。
「エルフィさん」
「続けろ」
顔を上げたエルフィの表情は、いつもと何も変わらなかった。すずなは小さく頷いて、また地面を蹴った。




