第120話 小さな火種
研究室を出たエルフィは、すずなを王都の外れの草地へ連れ出した。
途中、ギルドの受付で一枚の紙を受け取っている。草地の中ほどで足を止めると、エルフィはそれを広げ、眉間に浅く皺を寄せて文字を追い始めた。
短く刈られた草が、足首のあたりをくすぐる。人の気配はなく、修行にはうってつけの静けさがあった。
すずなが横から覗き込むと、日付と数字が几帳面な字で並んでいる。もちろん、すずなには一文字も読めない。
「それは」
「南の記録の写しだ。毎日王都に届くようにしてある」
エルフィは紙を折り畳んで懐にしまった。
「発光の範囲は少しずつ広がっている。だが、急ぐほどの速さではない。数か月は持つと見ている」
「数か月、ですか」
「長くはない。その間に、お前たちには力をつけてもらう」
数か月という言葉が長いのか短いのか、すずなには判断がつかなかった。ただ、エルフィがわざわざ毎日記録を取り寄せていることの重さだけは分かった。
「だから、始めるぞ」
エルフィはすずなを数歩先に立たせ、自らも向き合うように立った。すずなの手のひらを上に向けさせ、細い指で手首をそっと支える。
「まず適性を見る」
「適性、ですか?」
「魔力をそのまま流せ。何も意識しなくていい」
すずなは言われた通りに、手のひらへ意識を向けた。体の奥から魔力がゆっくりと引き出され、指先へ流れていく。淡い光が、手のひらの上にぽうっと灯った。
「ふむ」
エルフィは光をじっと見つめ、かすかな揺らぎの中から何かを読み取ろうとするように目を細めた。しばらくして、ゆっくりと頷く。
「悪くない。偏りが少ない」
「偏りが、少ない?」
「多くの人間は、どこか一つの属性に寄る。火が得意だ、水が得意だ、というふうにな。だがお前は、どの属性にもわずかずつ馴染んでいる」
「それは、いいことなんでしょうか」
「良くも悪くもある」
エルフィは腕を組み、淡々と続けた。
「器用貧乏になりやすい。だが逆に言えば、どの属性も高い水準で扱える見込みがある」
すずなは自分の手のひらを見つめた。まだ何も起きていない。それでも見込みがあると言われただけで、胸の奥が騒ぎ出すのが分かった。
「エルフィさんは、全属性使えるんですよね」
「当然だ。マスターランクだからな」
胸を張るエルフィに、すずなは思わず笑みをこぼした。何度も聞いた台詞なのに、本人の口から聞くとやはり頼もしい。
「それでは、どの属性から始めますか?」
「決めるのはお前だ」
意外な言葉に、すずなは瞬きをした。
「私が、ですか?」
「魔法は相性がすべてじゃない。好みも大事だ。好きな属性はあるか」
問われて、すずなは少し考え込んだ。これまでの試練の記憶が、次々と浮かんでくる。
「水、でしょうか。紬さんと一緒だった人魚姫の試練を思い出しますし。あの泡の盾が、とても綺麗だったので」
「Foam Veilか」
エルフィは短く頷いた。
「悪くない選択だ。だが、一つ言っておく」
「はい」
「水は守りや補助に向いた性質が強い。攻めにも使えるが、器用さが要る。最初に学ぶには少し難しい」
「そうなんですか」
「もう一つ、候補を出そう」
エルフィはすずなの手のひらに視線を落としたまま続けた。
「火だ。単純で、威力も出やすい。最初の一属性としては、火が定石とされている」
「火……」
何も纏っていない手のひらに、これから炎が宿る。そう思うと、不思議な気持ちになった。
「決めるのはお前だ、と言ったな」
エルフィが念を押すように繰り返す。
「もう一度聞く。どうする」
すずなの頭に、これまでの戦いがよぎった。大切な人を守りたいのに、力が足りずに歯痒い思いをした瞬間が幾度もあった。守るだけでは、守りきれないものがある。
「守るだけではなくて、守るために攻める力を身につけたいです」
すずなはまっすぐにエルフィを見た。
「だから、火からお願いします」
「いい目だ」
エルフィは短くそう言って、口の端をかすかに上げた。期待を隠しきれていないその表情に、すずなの背筋も自然と伸びる。
「では、火から始める。まずは基礎の一手として、小さな火種を灯すことから覚えろ」
「火種、ですか」
「魔力を右手に集めて、これくらいの熱を思い浮かべる」
エルフィが指先を軽く動かすと、その上に小指の爪ほどの炎がふわりと浮かんだ。橙色の光が、白い指先を照らす。
「わ……」
「大層な威力はない。だが、全ての火属性魔法はここから始まる」
エルフィは炎を消し、すずなに向き直った。
「やってみろ」
すずなは右手を持ち上げた。先ほど流した魔力の感覚を思い出しながら、そこに熱を重ねていく。
けれど、何も起きなかった。指先がうっすらと温かくなるだけで、光は一向に灯らない。
「熱が曖昧だ」
エルフィが言った。
「何の熱でもいい。お前がよく知っている熱を思い浮かべろ」
すずなは目を閉じ、よく知っている熱を探した。
浮かんだのは、毎朝湯を沸かす鍋だった。火にかけてしばらくすると、底から細かな泡がふつふつと上ってくる。蓋の縁から湯気が漏れ出し、取っ手に触れるとじんと熱い。
その熱を、指先の一点に集める。
ぽっ、とかすかな音がした。
目を開けると、指先に赤い光が灯っていた。
「あ」
炎と呼ぶにはあまりに頼りない、火の粉のような光が揺れている。それでも、自分の意思で灯した火に変わりはなかった。
嬉しくなって身を乗り出した途端、光はふっと消えた。
「あっ」
「気が逸れたな」
エルフィが淡々と言う。
「灯した後こそ、熱を保て。喜ぶのは消えなくなってからだ」
「はい」
すずなはもう一度目を閉じた。湯の沸く鍋を思い浮かべ、その熱を指先へ運ぶ。今度は灯った後も、目を開けずに熱を握り続けた。
まぶたの裏に、明かりが透けて見える。
そっと目を開けると、指先の赤い光は、さっきよりわずかに大きくなっていた。揺らめきながらも、消える気配はない。
「悪くない」
エルフィがすずなの手元を覗き込んだ。赤い光が、二人の顔をぼんやりと照らす。
「初日でこれなら上出来だ。お前は本当に伸びが早いな」
呟くような声に、かすかな驚きが混じっていた。
「何を思い浮かべた」
「お鍋です。お湯を沸かす時の」
「鍋か」
エルフィは一瞬だけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「お前らしい」
それが褒め言葉なのかどうか、すずなには分からなかった。ただ、エルフィの口元が緩んでいるのは見えた。
エルフィはふと南の方角へ目を向け、すぐにすずなの手元へ視線を戻した。
「もう一度だ。感覚が消えないうちにやれ」




