第119話 継承
四つの理の基礎を身につけてから、十日ほどが過ぎた。
その間、すずなは空き地で技を磨き続けた。投げられる枝は十本を越え、光の弾は四方から飛んでくるようになった。停止を使った後によろめくことも、いつの間にかなくなっていた。
修行の締めくくりの日、すずなはレインの研究室に呼ばれた。
部屋は、今日も紙の山に埋もれていた。床から天井近くまで積み上げられた書物の合間に、細かな埃が漂っている。机の上には何枚もの設計図が広げられ、すずなには読めない文字と式がびっしりと書き込まれていた。
すずなはそのうちの一枚を手に取り、几帳面に並んだ線を指先でなぞった。文字は読めなくても、書いた人の性格だけはよく分かる。
「本当にお世話になりました」
「いやいや、こちらこそ実に有意義な時間だったよ」
レインは満足げに頬を緩めた。
「加速、緩速、停止、軌道逸脱。四つの理をここまで綺麗に体得してくれるとはね。理論ではなく感覚で掴んでいるのが素晴らしい。まあ、教えた相手は君が初めてだから、比べようもないんだけれど」
「初めて、だったんですか」
「一人で研究していた時間の方が長いからね。最初の日に、文献を山ほど積んだのを覚えているかい」
「はい。頭の高さまでありました」
「あれは、教え方を知らない人間のやることだったよ」
レインはそう言って、照れくさそうに笑った。
そこへ、ノックもなく扉が開いた。
「待たせたな」
低く落ち着いた声とともに、エルフィが部屋へ入ってきた。腕を組んだまま、紙の山を器用に避けて進んでくる。
「エルフィさん」
「報告は聞いている。時空魔法、無事に修めたそうだな」
「はい、おかげさまで」
エルフィはレインの机の前で立ち止まり、じっとすずなを見上げた。表情はいつもと変わらない。けれどその目の奥に、かすかな満足の色が見え隠れしていた。
「次は私の番だ。属性魔法を教えてやる。全属性使えるからな」
「よろしくお願いします」
すずなが深く頭を下げると、レインが椅子から立ち上がった。
「では、引き継ぎということで。エルフィ、彼女は魔力の伸び方が素直で、吸収も早い。基礎からで問題ないはずだよ。ただ、理屈を長々と並べると途中で置いていかれるから、そこだけは気をつけて」
「お前に言われたくはない」
「それはそうだね」
レインは悪びれもせずに頷き、手早く荷物をまとめた。扉の前で一度振り返り、すずなに軽く手を振る。
「時の理で分からないことがあったら、いつでもおいで。今度は、本を積まずに待っているから」
扉が閉まり、研究室に静けさが戻った。
二人きりになった部屋で、エルフィはすずなの隣の椅子に腰を下ろした。
「あの、紬さんと心春さんは、今どうしていますか。しばらく会えていなくて」
修行が始まってから、三人はそれぞれ別の場所で過ごしている。最後に顔を合わせたのがいつだったか、すずなはもうはっきりと思い出せなかった。
「ふむ」
エルフィは顎に指を当て、少し考えた。声に、どこか楽しげな響きが混じる。
「紬の様子から教えてやろう」
「はい」
「片目に眼帯、片手に包帯。闇色の装束をまとって、名乗りまで用意していた」
「え」
想像もしていなかった言葉の並びに、すずなの思考が一瞬止まった。
「『真の闇の使徒、見参』だそうだ」
エルフィはまったく抑揚のない声で、その名乗りをなぞった。
すずなは思わず固まった。頭の中で必死に紬の姿を思い描こうとする。けれど普段の快活な笑顔と、今聞いた装束が、どうしても一つに結びつかない。
「その場では、どうにか堪えた」
エルフィはすっと視線を逸らした。
「帰り道で、駄目だった」
「エルフィさんが、ですか」
普段は淡々と物事を語り、ほとんど表情を動かさないエルフィが笑ったという。すずなにとっては、紬の装束よりもそちらの方がよほど驚きだった。
「本人は至って真剣だった。クレアも真剣だった。だから余計に、こらえきれなかった」
思い出したのか、エルフィの口元がわずかに緩む。すずなもつられて、小さく吹き出してしまった。
「でも、紬さんらしい気もします」
「そうか」
「紬さん、昔から一度決めたら、とことんやるので」
「腕も確かだ。三つの的を、続けざまに撃ち抜いていた。あの格好は、まあ、置いておくとしてな」
エルフィの声には、からかう響きの奥に、確かな評価が滲んでいた。
「心春さんの方は、どうですか」
「あちらは落ち着いている」
エルフィの声が、ふっと柔らかくなった。
「火の精霊と風の精霊、二体と契約した」
「二体も。すごいです」
精霊契約がどれほど難しいものか、すずなは詳しくは知らない。それでも、シェイラに師事してなお、簡単な道のりではなかっただろうことは想像がついた。
「火の方とは、最初はぶつかっていたらしい。今では、精霊同士で言い合っている方が多いそうだ」
「精霊同士で、ですか」
「片方は口が悪く、片方は騒がしい。心春はその間で、うまくやっている」
二体の精霊に挟まれて、困ったように笑う心春の姿が目に浮かんだ。一人で南の森にいた頃の話とはまるで違うその姿に、胸の奥が軽くなる。
「よかった」
自然と、そう口からこぼれた。
「二人とも、ちゃんと前に進んでいるんですね」
「ああ」
「早く会いたいです」
「もうすぐだ」
エルフィは短く答えて、椅子から立ち上がった。その一言に、すずなは何か含みがあるような気がした。けれど問い返すより先に、エルフィが振り返る。
「さて、無駄話はここまでだ。始めるぞ」




