第117話 時の理
紬がクレアの拠点へ修行に出てから、家の中はずいぶん静かになった。
朝、湯を沸かす音がやけに大きく聞こえる。食器を二つ出しかけて、一つを棚に戻す。そんな小さな癖にも、すずなはようやく慣れ始めていた。
自分の修行が始まると告げられたのは、その頃だった。
「時の扱いは私より向いている奴がいる。前に言っただろう。レインに頼んでおいた」
エルフィはそれだけ言って、王都のギルドの図書室を待ち合わせ場所に決めた。名前を聞いて、すずなは初めて会った日の長い話を思い出した。
エルフィの誕生日の相談をはじめ、図書室にはこれまで何度も足を運んできた。天井まで届く書架も、中央の大きな机も、すっかり見慣れている。けれど今日は、その机の上に見慣れない山ができていた。
レインが書物を一冊ずつ重ねている。すずなが入っていった時には、その山はすでに肩の高さを越えていた。
「おはよう、すずな君。待っていたよ」
レインは手を止めずに振り返った。
「今日から、時空魔法の基礎理論を教えていくよ。まずは手元に置いておくべき文献を選んでおいた」
また一冊、山の上に本が載る。山はとうとうすずなの頭の高さを越えた。
「よろしくお願いします」
すずなは丁寧に一礼してから、一番上の本にそっと目をやった。背表紙に並ぶ文字は、一つも読めなかった。
「あの、レインさん。すみません、私、こちらの文字がまだ読めなくて」
レインの手がぴたりと止まった。
「そうだったね。失念していたよ。日付も、シェイラに読んでもらっていたっけ」
レインは積み上げたばかりの山を見上げ、しばらく黙っていた。それから一冊だけを抜き取り、残りを机の端へ寄せた。
「では、文献は私が読み上げよう。要点は君の言葉で書き留めておいてくれるかな」
「はい」
すずなはノートを開いた。日本語なら、どれだけ書いても困らない。
「まず、時間という概念について根本から理解しておく必要がある。一般に時間は一方向に流れるものと認識されているけれど、これはあくまで、この世界における局所的な現象に過ぎないんだ。より広い視点で見れば、時間軸は複数の層が重なり合った多次元的な構造を持っていてね。私たちが日常で体感している『流れ』は、その中のごく一部の断面でしかない。この構造を理解することが、時の理に触れる第一歩になる。具体的には……」
すずなは必死にペンを走らせた。けれど書き留める速さが、レインの語る速さにまるで追いつかない。一行を書き終える頃には、話はもう三つ先へ進んでいる。言葉の波に、考える力まで押し流されていく。
「あの、レインさん」
「うん、何かな」
「すみません、少しお話が……」
「話が、どうかしたかい」
すずなは迷った。けれど曖昧なまま進めても、身につかないことは分かっていた。
「その、何をおっしゃっているのか、途中から分からなくなってしまって」
レインは少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうか。では、もう少し噛み砕いて説明しよう」
レインは本を閉じ、改めて口を開いた。
「時間というのは、一枚の布のようなものだと考えてほしい。その布には無数の糸が織り込まれていて、一本一本が異なる可能性や、異なる瞬間を表しているんだ。普段、私たちはその布の表面を一方向になぞるようにして生きている。けれど時空魔法の使い手は、布の織り目そのものに干渉できる。糸を少し引いたり緩めたりすることで、流れそのものに変化を加えられるというわけだね。もちろんこれは比喩で、実際の構造はもっと複雑な式で記述される。基礎となる式としては……」
布のところまでは、すずなにも分かった。ノートの隅に小さく布の絵まで描いた。けれどその先には、また別の高い壁が待っていた。
「あの」
「今度はどこかな」
「布のお話は分かりやすかったんですが、その後の式のあたりから、また」
レインは眉を寄せ、深く息を吐いた。机の端に寄せた本の山が、その息に合わせてわずかに揺れた気がした。
「難しいものだね。教えるというのは」
「すみません。私の理解が追いついていないだけかもしれません」
すずなは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「いや、すずな君のせいじゃないよ」
レインはきっぱりと首を振った。
「私の説明が専門的すぎるんだろうね。長いあいだ一人で研究を続けてきたせいで、どこまで話せば伝わるのか、加減が分からなくなっているのかもしれない」
思っていたよりも、ずっと率直な答えだった。すずなは否定しかけて、結局小さく頷いてしまう。レインはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
「正直だね、君は」
「あ、いえ、その」
「助かるよ。分からないと言ってもらえなかったら、私は日が暮れるまで話し続けていただろうから」
冗談には聞こえなかった。
「やり方を変えよう。理論より、まずは体で感じてもらう方が早い」
レインは最後の一冊も脇へ寄せ、机の上を空にした。
「時空魔法の基礎は、時間の流れをわずかに感じ取ることから始まる。目を閉じて、意識を自分の周りに広げてごらん」
すずなは言われるまま目を閉じた。自分の呼吸の音が、いつもよりはっきりと聞こえる。
「呼吸の間隔、心臓の鼓動。それらは時間の流れのいちばん身近な目盛りなんだ。まずはその規則正しさを、しっかり感じ取ってみて」
すずなは自分の内側に耳を澄ませた。吸って、吐いて、また吸う。胸の奥で、とくん、とくんと鼓動が続いている。普段は気にも留めない感覚が、少しずつ輪郭を持って浮かび上がってきた。
「感じました」
「いいね。次は、その規則正しさをほんの少しずらす感覚を掴んでみよう」
「ずらす、というのは」
「息を一瞬だけ止めてごらん。その間、時間の流れがわずかに歪んで感じられるはずだよ」
すずなは言われた通りに息を止めた。
一つ、二つと数えるうちに、周りの空気がいつもより重たく感じられてきた。肌に触れる空気が、とろりと粘り気を帯びたような手触りに変わっていく。
思わず息を吐くと、その手触りはすっと消えた。
「今の、何だったんでしょう」
「それが時空魔法のいちばん原始的な感覚だよ。今日からは、その感覚を少しずつ広げていこう」
先ほどまでの長い語りが嘘のように、短く分かりやすい説明だった。
「こちらの方が、ずっと分かりやすいです」
すずなが正直に伝えると、レインは満足げに頷いた。
「覚えておくよ。これからはこのやり方で進めよう」
それから何度か、同じ練習を繰り返した。息を止めるたびに、空気の手触りが変わる。三度目には、止めている時間が少しだけ長く感じられた。五度目には、鼓動の間隔がほんのわずかに間延びしたような気がした。
「エルフィの言っていた通りだね」
練習の合間に、レインがぽつりと言った。
「エルフィさんが、何か」
「時を扱う素質がある、とね。私のところへ寄越すと聞いた時は、正直なところ半信半疑だったんだ」
レインは指先で机を軽く叩いた。
「でも、初日でここまで感じ取れる人はそういない。すずな君の魔力が、時の性質を帯びているからだろうね」
すずなは指輪に目を落とした。黒い点が、いつもと変わらずそこにある。
「では、その加護の成り立ちについても少し説明しておこうか。加護と時の理の関係は古くから議論が分かれていて、大きく三つの学派が……」
「レインさん」
「うん」
「実践で、お願いします」
レインは開きかけた口を閉じた。それから咳払いを一つして、何事もなかったように言った。
「そうだった。実践だね」
すずなは小さく笑って、もう一度目を閉じた。
その日の帰り道、すずなはノートを開いた。最初の頁には、走り書きの言葉の切れ端がびっしりと並んでいる。その隅に描いた小さな布の絵だけが、やけにきれいに残っていた。
明日からは、実践を中心に進めることになっている。それでもきっと、レインの饒舌な語りは時折顔を出すのだろう。そのたびに要点を拾い集める羽目になるとしても、「分からない」と言えば立ち止まってくれる人だということは、もう分かっていた。




