第116話 野営地の記録
クレアの家を訪ねてから二日後の夜、エルフィは南の森へ足を運んだ。
森の入り口には、小さな野営地ができていた。地面に杭を打ち、天幕が円を描くように並んでいる。見張りの冒険者たちが交代の時刻を確かめ合う声が、夜気の中に低く響いていた。
エルフィが姿を現すと、天幕の前に立っていたメイルが杖を持ち直し、深く腰を折った。
「エルフィ様。お待ちしておりました」
本来ならギルドの執務室にいるはずの男が、自ら野営地まで出向いている。
「ギルドにいればいいものを」
「こちらの方が、状況がすぐに分かりますので」
メイルは穏やかに答えて、天幕の入り口を押し上げた。
中には簡素な机と地図があり、記録簿が三冊積まれていた。ランプの光が、紙の端を黄色く照らしている。机の隅には湯気の立つ茶と、紙に包んだ焼き菓子が二つ置いてあった。
「これは」
「夜分にお越しいただくと伺いましたので。街の菓子屋のものですが」
エルフィは無言で包みを一つ開いた。蜂蜜の香りが立つ。一口かじってから、ようやく記録簿に手を伸ばした。
「毎日の観測値をまとめてあります。まずはこちらを」
一番上の一冊を取って頁をめくる。日付ごとに発光の範囲と魔力の濃度、周辺の魔獣の出没数が、几帳面な字で記されていた。夜間の観測にも抜けがない。
「範囲は」
「封印を強化した日から今日までで、外周がおよそ一割広がりました。光の強さも、僅かに増しています。ただ急な変化ではなく、日を追って少しずつという印象です」
「魔獣は」
「依然として近づきません。森の外縁でも、数が減ったままです」
エルフィは数字を目で追いながら、焼き菓子の残りを口に入れた。
「交代の体制は」
「手練れの冒険者を数組、順に詰めさせています。魔力の扱いに長けた者を、各組に必ず一人入れました。変化があれば、狼煙と通信の両方で知らせる手筈です」
「夜間の見張りは二人一組にしろ。単独で綻びに近づく者を出すな」
「承知いたしました。今夜のうちに徹底させます」
メイルは迷いなく答えた。
「他にも足りない点があれば、遠慮なくご指摘ください。エルフィ様のご指示であれば、すぐに改めます」
その物言いに、余計な飾りはなかった。エルフィは記録簿を閉じて立ち上がった。
「見てくる」
「お供いたします」
メイルが杖の先に灯りをともし、半歩後ろについてくる。二人は天幕を出て、森の奥へ向かった。
木々が途切れ、開けた場所に出た。地面の一部が薄く光っている。強化した術式の線がその周りを幾重にも囲み、光を内側へ押し込めていた。
エルフィはしゃがみ込んで、指先を光の縁に近づけた。肌の上を、ぴりぴりとした感触が走る。
三十年前にも、同じ痺れを指先で感じた。あの時は、光の向こうから溢れ出てくるものを、バルドが最前線で食い止めていた。シェイラが扉を封じ終えるまでの、長い夜だった。
「広がっているな」
「記録の通りでしょうか」
「ああ。誤差の範囲だ。お前の観測は信用できる」
メイルは目を細め、小さく会釈した。
エルフィは立ち上がり、光を見下ろしたまま尋ねた。
「持つと思うか」
「はっきりとは申し上げられません。ただ、この速さのままなら、数か月は問題なく持つと見ております。何かのきっかけで一気に崩れる可能性も、否定はできませんが」
「私の見立ても近い」
エルフィは頷いた。
「南以外の封印にも人を置いている。そちらには、今のところ変化がない。緩み始めたのは南が先だ」
「どうして南だけが」
「理由は分からん。分かるまで、ここは切らさずに見ておく必要がある」
「承知しております。人員も物資も、こちらで確保を続けます」
しばらく、二人とも黙って光を見ていた。
「お弟子さん方は、いかがですか」
先に口を開いたのはメイルだった。
「順調だ。すずなは時空魔法の基礎を終えた。心春は、精霊と二体契約した」
「二体も。それは心強いですね」
「紬は」
エルフィはそこで言葉を切った。
「紬さんは」
「……闇の使徒になった」
メイルは杖を掲げたまま、しばらく動かなかった。
「闇の、使徒ですか」
「腕は確かだ。それ以上は聞くな」
低く言い切ったエルフィの口の端は、灯りの届かないところで、わずかに上がっていた。メイルは何も聞き返さず、ただ「左様でございますか」とだけ答えた。
あの三人が力をつけるまで、持たせなければならない。
口元を引き締めて、エルフィはもう一度地面の光を見た。三十年前は間に合った。今度も間に合わせる。そのために、あの三人をそれぞれの師のもとへ送り出したのだ。
天幕に戻ると、エルフィは記録簿の写しを、毎日王都にも送るよう告げた。
「私が不在の時でも、レインかシェイラが目を通せるようにしておきたい」
「かしこまりました。今夜の分から手配いたします」
エルフィは最新の頁の隅に、自分の署名を書き添えた。次の頁は、まだ白いままだった。
「十日後にまた来る」
「お待ちしております」
エルフィは、机の上に残っていたもう一つの包みを、ごく自然な手つきで懐にしまった。メイルは何も見なかったような顔で、深々と一礼した。
エルフィは何も返さず、野営地を後にした。




