第115話 真の闇の使徒、見参!
紬の修行が終盤に差し掛かった頃、エルフィは王都の外れにあるクレアの家を訪ねた。
黒い外壁の家の扉を叩くと、ほとんど間を置かずに開いた。
「エルフィ様。お越しいただき、ありがとうございます」
クレアは背筋を伸ばし、きっちりと一礼した。黒いコートの裾が、その動きに合わせて静かに揺れる。
「堅苦しいのはいいと言っている」
「はい。どうぞ中へ」
通された居間には、相変わらず鏡が一枚もなかった。クレアは手際よく茶を淹れ、エルフィの前にカップを置く。受け皿に添えた焼き菓子まで、きちんと角を揃えて並べてあった。
「弟子の様子はどうだ」
「ちょうど、お見せできる頃合いかと。今、呼びます」
クレアは奥の部屋へ顔を向けた。その瞬間、声の温度ががらりと変わる。
「出でよ、我が弟子」
奥の扉が開き、全身を黒で固めた紬が姿を現した。片目には眼帯、左手には封印の白い包帯、手首から指先のリングへと伸びる細かな鎖。口元は黒いマスクで覆われている。以前の紬の面影は、その出で立ちからほとんど窺えなかった。
「新たな、真の闇の使徒の誕生だ」
クレアが誇らしげに告げた。
紬の体が、反射的に動いた。右手の指先で眼帯を押さえ、左手でコートの裾を払う。この数週間、クレアに叩き込まれた名乗りの所作だった。
「真の闇の使徒、見参!」
ノリノリだった……
言い切ってから、紬はようやく、目の前にいるのが誰なのかを理解した。
「エルフィさん……」
エルフィはカップを持ったまま固まっていた。紬を頭の先から足の先まで一往復眺め、それから無言で顔を背ける。カップの中の茶が、細かく波打っていた。
「エ、エルフィさん」
「ぶふっ」
口元を覆ったエルフィの指の隙間から、こらえきれない息が漏れた。
「笑ってますよね」
「笑っていない」
「声が震えてます」
「茶が熱かっただけだ」
紬は両手で顔を覆いかけ、左手に巻いた包帯が目に入って、余計にいたたまれなくなった。
「な、なんだ、その恰好は」
「クレアさんの、修行の一環で……」
「効果は確かです」
クレアがエルフィに向き直って言った。紬に向ける時とは別人のような、落ち着いた丁寧語だった。
「片目と片手を封じたことで、残った感覚の精度が大きく上がりました。狙撃の命中率は、修行を始めた頃とは比べものになりません」
紬は思わずクレアを見た。自分の前では、一度も聞いたことのない話し方だ。初日の夕食の席でうっかり出た「お口に合ったなら、よかった」と、同じ響きをしている。
「師匠、エルフィさんの前だと普通に喋るんですね」
「……闇は、相手を選ぶ」
クレアは紬の方へだけ、低い声で言い直した。
エルフィはもう一度紬の手首に目をやり、それからまた顔を背けた。
「その鎖。無駄に細かく凝っているところが、余計に」
「そこ、突っ込まないでください」
紬は恨めしそうにエルフィを睨んだ。マスクのせいで、睨んでいることが伝わったかどうかは分からない。
「まあ、恰好についてだけは」
「エルフィさんまで、そんな……」
紬が思わず抗議の声を上げた。
「別に悪いとは言っていない。ただ、少し」
エルフィは言葉を選ぶように、一度言い淀んだ。
「見慣れない、だけだ」
エルフィがカップを置いた。口の端は、まだ少し上がっている。
「実力の方は見せてもらえるか」
「もちろんです。裏の森へどうぞ」
家の裏手から少し入った森は、昼間でも薄暗かった。クレアは木々の間に、大きさも高さも違う的を三つ吊るしていく。一番遠いものは、暗がりに溶けて輪郭さえ見えなかった。
「一つ目から順に撃て」
クレアの声に、紬は魔銃を構えた。包帯を巻いた左手で銃身を支え、呼吸を一つ深く落とす。見えないはずの暗がりの奥で、三つの的がそれぞれ小さく揺れているのが分かった。紐の軋みも、的の重さも、今は目より先に肌が拾ってくる。
魔力を流し込むと、銃身の魔法陣が淡く灯る。
一つ目は、息を吐き切ったところで撃った。二つ目は、吊るした紐がわずかに揺れて戻る、その一瞬を待った。三つ目は、狙いが定まったと思った時には、もう指が動いていた。
三つの光が闇を走り、三つの的の中心に、ほとんど同じ大きさの穴が開いた。
エルフィはしばらく何も言わなかった。
「良い腕だ……」
短い一言だったが、そこにもう笑いの気配はなかった。
「本当ですか」
「世辞は言わん。私も、お前の師匠もな」
紬はマスクの下で唇を噛んだ。恥ずかしさは消えない。それでも、ここまでの日々が認められたことは、素直に嬉しかった。
家に戻ると、クレアは新しい茶を淹れ直した。休憩の間だけと許しをもらい、紬は眼帯を外し、マスクを顎の下まで下ろして、両手でカップを包む。
「あの、エルフィさん」
「何だ」
「先輩は、元気ですか」
ずっと聞きたかったことだった。口に出した途端、声が少しだけ細くなる。
「元気だ。時空魔法の基礎を一通り終えて、これから私と属性魔法をやる」
「そうですか。よかった」
「この前、お前の分までスープを作りかけていた」
紬は、カップを持つ手を止めた。
「……そうですか」
それだけ言って、紬は茶を一口飲んだ。淹れたての熱い茶のはずなのに、味がよく分からなかった。
「あと少しだ」
エルフィは焼き菓子を一つ取り、紬の受け皿にそっと載せた。
「修行が終われば、嫌でも毎日顔を合わせる」
「はい」
紬は焼き菓子を見つめ、それから小さく頷いた。
「ところで、師匠」
気を取り直したように、紬はクレアへ向き直った。
「実戦に出る時は、さすがにこの恰好じゃないですよね」
「実戦でもこの装いのままだ。慣れておけ」
「実戦でもですか?」
紬の声が、悲鳴に近くなった。
「当然だ。闇の使徒が装いを解くのは、闇が明ける時だけだ」
「明けるって、いつですか」
「いずれ分かる」
答えになっていない答えに、紬はがっくりと肩を落とした。エルフィは何も言わずに茶を飲んでいたが、カップを傾ける角度が、さっきからやけに深かった。
「クレア、引き続き頼む」
「お任せください、エルフィ様」
帰り際、扉の前でエルフィはもう一度だけ振り返った。黒い装束に戻った紬が、クレアの隣できっちりと頭を下げている。
家から十分に離れたところで、エルフィはようやく足を止めた。
「……あれを、すずなが見たら」
呟いた途端、こらえていたものが込み上げてきて、エルフィは誰もいない道で一人、口元を押さえた。




