第114話 風の帰るところ
それから数日、心春は毎日のように丘へ通った。
かくれんぼは、約束通りフィンが隠れる番から始まった。相手は風そのものだ。目を凝らしても姿は見えず、気配を探っても丘じゅうに散らばっている。結局、心春が見つけられたのは、待ちくたびれたフィンが自分から「ここだよ」と声を上げた時だけだった。
「それは、見つけたうちに入りません」
「えー、入るよ。ミハル、見つけたって顔してたもん」
かくれんぼの合間には、風を使った動き方も教わった。フィンが後ろから押す風に合わせて踏み込めば、Flash Stepの距離が少しだけ伸びる。理屈は単純だが、息を合わせるのは簡単ではなかった。
「行くよ。せーの」
背中を押す風に合わせて地面を蹴った瞬間、思っていたよりずっと強い風が吹きつけた。心春の体は狙った岩を軽々と通り越し、その先の草むらに頭から突っ込んだ。
「……フィン」
「ごめーん。ちょっと張り切っちゃった」
草の中から顔を上げると、胸の内に低い声が響いた。
「加減を知らん奴だ」
「バーニルがそれを言いますか」
蝋燭を半分にした火柱を、心春はまだ忘れていない。紋章の奥が、ばつが悪そうに静かになった。
ある日の修行の終わり、心春は丘の上に腰を下ろして息を整えていた。ふもとの木陰では、シェイラが本を膝に載せている。そこへフィンがふわりと隣に降りてきて、人の形を保ったまま座り込んだ。
「ねえ、ミハル」
「はい」
「ミハルはさ、修行が終わったらどこに行くの?」
いつもの軽い調子なのに、問いかけの奥に、何かを確かめようとする響きがあった。心春は少し考えてから答えた。
「家に帰ります。すずなさんたちの家から歩いて行けるところに、引っ越したばかりなので」
「ふうん。そこから、どこかへ出かけたりは?」
「します。依頼があれば、遠くの街にも」
「でも、帰ってくるんだ」
「はい。帰ってきます」
フィンは膝を抱えるような格好で、丘の下へ目をやった。
「僕はさ、帰るところってないんだ。風だから、ずっと吹いてるだけ。どこにでも行けるけど、どこにも留まらない。誰かに縛られるのも、あんまり得意じゃない」
「それは、寂しくないんですか」
「寂しいって思ったこと、ないなあ。……ないと思ってた」
最後の一言だけ、少し声が小さかった。
心春は、遺跡の暗がりで過ごした二年を思った。あの頃は、どこにも行けなかった。壁際で息を潜め、朝が来るのを待つことしかできなかった。
「私は、その反対でした」
「反対?」
「前は、どこにも行けなかったんです。隠れて、じっとしているしかなくて。でも今は、行きたいところに行けます。行って、ちゃんと帰ってこられる場所もあります」
話しながら、心春は自分でも少し驚いていた。あの二年のことを口にしているのに、胸が痛まない。
「だから今は、どこへでも行ってみたいんです。帰る場所があるから」
フィンはしばらく黙っていた。それから立ち上がり、心春の周りをゆっくりと一周した。
「ミハルってさ、僕みたいに身軽なのに、ちゃんと戻ってくる人なんだね。自由でいながら、誰かのために踏みとどまれる人」
「そうでしょうか」
「うん。そういう人となら、一緒に吹いてみてもいいかなって思った」
フィンの声から、いつもの軽さが消えていた。
「ミハルが帰るところに、僕も一緒に帰ってもいい?」
心春は言葉に詰まった。飄々として見えたフィンが、そんなことを考えていたとは思わなかった。
「……私からも、お願いしようと思っていました。契約してもらえませんか」
「うん!」
フィンは心春の周りに風の渦を巻いた。光の粒が渦に沿って舞い上がり、心春の視界を白く満たす。目を開けると、手の甲に小さな紋章が淡く浮かび上がっていた。
「これが……」
「契約の証だよ。これで、ミハルが帰るところが、僕の帰るところだ」
フィンの声には、屈託のない喜びがあふれていた。
「騒がしいのが増えた」
胸元の紋章が、不機嫌そうに熱を帯びた。
「ねえ、バーニル、なんか言ってる?」
「騒がしいのが増えた、と」
「ひどーい。でも、嫌いじゃないってことでしょ」
「言っていない」
「あ、今のは分かった。言ってないって言ったでしょ」
胸元の紋章が、むっとしたように熱くなった。フィンには聞こえていないはずなのに、なぜか会話が噛み合っている。
いつの間にか、シェイラが本を閉じて丘を上ってきていた。
「二つ目の契約が成立しましたね」
「はい」
「性質の違う二体と、これほど早く心を通わせるとは思いませんでした。精霊は、素質のない者には応えません。あなたには、確かにその素質があります」
心春は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「これで基礎は整いました。あとは実戦で、二体との連携を確かめていきましょう」
心春は手の甲の紋章を見下ろした。胸元に火、手の甲に風。二つの紋章を持つ自分の姿は、まだ少し見慣れない。
「ねえミハル。帰ったら、家、見せてね」
「狭いですよ」
「いいよ。風は狭いところも得意だから」
「……やはり騒がしい」
二つの声に挟まれながら、心春は家のどこから片付けようかと考えはじめていた。




