第113話 軽やかな風
バーニルとの契約を終えた翌日、心春はシェイラに一つ相談を持ちかけた。
「もう一体、別の精霊とも契約できないでしょうか」
紋章の奥で、バーニルが小さく鼻を鳴らした気がした。
シェイラは首を横に振った。
「今はまだ早いでしょう」
「どうしてですか」
「契約したばかりのバーニルとの繋がりを、まずは体に馴染ませる必要があります。二つの契約を同時に扱うのは、慣れないうちは荷が重いんです」
心春は頷いた。焦る気持ちがなかったわけではない。けれど、昨日の火柱を思い出せば、シェイラの言うことはもっともだった。
「分かりました。まずはバーニルの力を、ちゃんと使えるようにします」
「ええ。それが一番の近道です」
シェイラはわずかに口元を緩めた。
「一体では足りんとでも言うのか」
庵を出たところで、胸の内に不満げな声が響いた。
「そういうわけじゃないです」
「なら、いい」
短い返事だったが、紋章のあたりがほんのり熱を持っていた。拗ねているのか照れているのか、心春にはまだ見分けがつかない。
その日から、心春の修行は火を扱う練習になった。指先に小さな炎を灯し、それを狙った場所へ放つ。最初の数日は、蝋燭の時と同じように、頼んだよりも大きな火ばかりが出た。
「大きいです」
「お前が小さく言わないからだ」
「言いました。小さくって」
「お前の小さいは、私には小さすぎる」
そんなやり取りを何十回と繰り返すうちに、少しずつ物差しが揃っていった。拳ほどの火と頼めば拳ほどの火が灯り、狙った枝の先だけを焦がせるようになる。短剣を振るう時とも、Silent Stepで気配を断つ時とも違う。何もないところから熱が生まれ、自分の意志の通りに飛んでいく感覚には、静かな高揚があった。
「様になってきたな」
バーニルがそう言うようになったのは、二週間ほど経った頃だった。最初の頑なさが嘘のように、今では修行の合間に軽口を交わすことも珍しくない。
さらに日が過ぎたある日、シェイラが告げた。
「バーニルとの連携も安定してきましたね。次の段階に進みましょう」
「もう一体の精霊とですか」
「ええ。今度は、風の精霊を紹介します」
「風か」
バーニルが、面白くなさそうに呟いた。
「知り合いなんですか」
「顔を合わせれば分かる。騒がしい奴だ」
シェイラに連れられて向かったのは、森の中でも木々のまばらな、開けた丘の上だった。足元の草が、一方向にだけ揃って伏せている。
「ここに住み着いている精霊がいます」
シェイラがそう言った途端、心春の髪がふわりと持ち上がった。
「え……?」
目の前で、風がゆるやかに渦を巻き始める。渦は次第に人の形に近い輪郭を帯び、透き通った淡い光をまとった姿になった。
「初めまして」
その声は、耳にはっきりと届いた。胸の内に響くバーニルの声とは違う。誰かが目の前で話しかけてくるのと、何も変わらなかった。
「声が、聞こえる……」
「僕は風だから。形を持つのも喋るのも、火よりちょっと得意なんだ」
その姿は軽やかに答えながら、心春の周りを一周した。
「僕はフィン。よろしくね、ミハル」
「よろしくお願いします、フィン」
「シェイラから聞いたよ。火の精霊ともう契約したんだってね」
「はい。バーニルという精霊です」
「バーニルかぁ。あいつ、頑固で有名なんだよね」
紋章のあたりが、むっと熱くなった。
「聞こえているぞ」
「……今、バーニルが怒ってます」
「えー、本当のことなのに」
心春は思わず吹き出した。
「最初は、なかなか認めてもらえませんでした」
「でしょ。僕はそういうの苦手だなあ。難しいこと考えるより、先に動いちゃう方が好きなんだ」
「フィンとバーニルは、随分違うんですね」
「そりゃそうだよ。火と風だもん」
フィンは悪びれもせずに答え、それから心春の顔を覗き込むように近づいた。
「でもさ、ミハルとは気が合いそうな感じがするな」
「そうですか?」
「うん。じっとしてるより、動き回る方が好きでしょ。それに、足音を消してこっそり近づくの、得意なんじゃない?」
心春は目を瞬かせた。スカウトとしての自分の性質を、会ったばかりの相手にあっさり言い当てられた。
「どうして分かるんですか」
「風はどこにでも行くからね。人の歩き方の癖、なんとなく分かっちゃうんだ。ミハル、ここに来るまで足音がほとんどしなかったよ」
フィンは心春の肩先をかすめるように吹き抜けた。
「ねえ、面白いことしない?」
「面白いこと?」
「かくれんぼ。ミハルの隠れる力と、僕の見つける力。勝負したら、絶対楽しいと思うんだ」
まさか精霊にかくれんぼを持ちかけられるとは思わなかった。少し離れたところで見守っているシェイラに目をやると、止めるどころか、どうぞと言うように小さく頷いている。
「いいですよ。やりましょう」
心春はSilent Stepを発動し、丘の縁の木立へ滑り込んだ。足音を消し、呼吸を細くして、太い幹の陰に身を寄せる。二年間、一人で命を預けてきた隠れ方だった。
「見つけた」
十も数えないうちに、すぐ耳元で声がした。
「もう……?」
「風はどこにでも入り込めるからね。姿や音を消しても、空気の流れが変わるのと、匂いまでは隠せないよ」
心春は幹から離れ、しばらく黙り込んだ。人の目からも魔物の鼻からも、これで隠れ通してきた。それが、あっという間に破られた。悔しいはずなのに、胸の奥に湧いてきたのは、もっと知りたいという気持ちの方だった。
「もう一回、お願いします」
「いいよ。何回でも」
二度目は岩の隙間、三度目は窪地に伏せた。どちらも、すぐに見つかった。
四度目の前に、心春は丘の草をじっと見下ろした。草はさっきから、ずっと同じ方へ伏せている。空気の流れと、匂い。フィンの言葉を頭の中で繰り返しながら、草が伏せていない場所を探す。
見つけたのは、風の通り道から外れた、岩と茂みに囲まれた小さな窪みだった。そこに身を沈め、空気を乱さないよう、指一本動かさずに待つ。
「……あれ?」
遠くで、フィンの声がした。一度近づいては離れ、また別の方へ遠ざかっていく。やがて、窪みの真上で風が止まった。
「見つけたー。でも、今のはちょっと時間かかった」
「本当ですか」
「うん。風の通らないところを選んだでしょ。ずるいなあ」
そう言うフィンの声は、どこまでも楽しそうだった。
その後も、二人は何度もかくれんぼを繰り返した。心春が隠れ方を変えるたびに、フィンも探し方を変えてくる。遊んでいるはずなのに、一回ごとに何かを教わっている気がした。
日が傾く頃には、二人の間にはすっかり気の置けない空気が流れていた。
「今日は楽しかった! ミハル、明日も来る?」
「シェイラさんが良いと言ってくだされば」
「来なよ。次は僕が隠れる番ね」
フィンは宙でくるりと一回転すると、そのまま丘の風に溶けて見えなくなった。
「……騒がしい奴だ」
帰り道、胸の内でバーニルがぼそりと呟いた。
「バーニルは、フィンが嫌いなんですか」
「嫌いとは言っていない」
「じゃあ、好きなんですね」
「そうも言っていない」
心春は笑いをこらえながら、丘を下る道を歩いた。




