第112話 炎との誓い
バーニルに芯の強さを認められてから、さらに数日が経った。
朝、祭壇の部屋に入ると、心春が火皿の前に座るより先に炎が灯るようになっていた。
「遅い」
「時間通りですよ」
「昨日より遅い」
ぶっきらぼうな声が胸の内に響く。待っていてくれたのだと思うと、口元が緩むのを抑えられなかった。
話すことは、他愛のないことばかりだった。シェイラの庵の台所に、いつも同じ茶葉が置いてあること。森で一番大きな木の根元に、変わった形の茸が生えていたこと。バーニルの方から何かを尋ねてくることは滅多にない。ただ、心春が話している間、炎は一度も消えなかった。
「ミハル。前に言っていた二人は、どういう者たちだ」
その日は、バーニルの方から問いかけてきた。
「すずなさんと紬さんですか」
「お前を迎えに来た者たちだろう」
「はい。すずなさんは、とても丁寧な人です。誰に対しても敬語で、困っている人を放っておけなくて。紬さんは明るくて、すずなさんのことが大好きで、すずなさんのことになると、ちょっとだけ周りが見えなくなります」
「ちょっとだけか」
「……だいぶ、かもしれません」
炎がぱちりと小さく爆ぜた。笑ったのかどうかは分からない。
「二人とも、今はそれぞれ別の場所で修行をしています」
「会いたいか」
「会いたいです。でも次に会う時には、私も何か一つ、できるようになっていたいので」
炎はそれ以上何も言わなかったが、その日はいつもより長く灯っていた。
翌朝、シェイラは珍しく祭壇の部屋までついてきて、入口近くの壁際に腰を下ろした。心春が火皿の前に座ると、炎はいつもより静かに、まっすぐ立ち上っている。
「今日は、いつもと違いますね」
「お前を試す」
胸の内に、短い声が響いた。
「試すって、何をですか」
「契約には覚悟がいる。半端な気持ちでは、この炎を身の内に宿すことはできない」
心春は姿勢を正した。
「何をすればいいですか」
「お前の譲れないものは、もう聞いた。だが、言葉だけなら誰にでも言える」
炎がふくらみ、火皿の縁を越えて大きく燃え上がった。肌を焼くような熱が、正面から押し寄せてくる。
「手を入れろ。迷えば焼ける。退けば、それまでだ」
心春は炎を見つめた。壁際のシェイラは何も言わない。止めるつもりも、手を貸すつもりもないのだと、その静けさで分かった。
右手を、少しずつ前に出す。指先が炎に近づくにつれて、熱が皮膚を刺した。あの日、思わず後ずさった距離を、今は越えようとしている。
怖くないと言えば嘘になる。けれど心春は、手を引かなかった。
遺跡の暗がりで、壁に背を押しつけて息を殺していた夜を思い出す。魔物の足音が遠ざかるのを待ちながら、心の中で何度も父を呼んだ。誰にも見つけてもらえないまま、それでも明日もう一度だけ起きようと、自分に言い聞かせてきた。
あの二年に比べれば、目の前の熱は怖いうちに入らない。
心春は指先から手のひらまで、炎の中に差し入れた。
熱は、来なかった。焼けるような痛みの代わりに、温かいものが手のひらを覆っていく。炎が手首に絡みつき、腕を伝って、胸元の方へゆっくりと上ってきた。
「退かなかったな」
「退いたら、それまでなんですよね」
「ああ。お前は退かなかった」
バーニルの声が、胸の奥で低く響いた。
「私は譲らない意志を、何よりも重んじる。お前の中には、それがある。契約を結ぼう」
炎が胸元に触れた瞬間、光が心春の視界を満たした。思わず目を閉じ、次に開けた時には、胸元に小さな炎の紋章が淡く浮かび上がっていた。
「これが……」
「契約の証だ。これからは、私の力をお前が使える」
心春が紋章に指先で触れると、わずかな熱が返ってきた。
「ありがとうございます、バーニル」
「礼は不要だ。私がお前を選んだだけだ」
突き放すような言い方なのに、胸の内に届く響きは、少しだけ照れくさそうだった。
壁際から立ち上がったシェイラが、こちらへ歩いてくる。
「よくやりましたね」
「途中で止めてくださるのかと思ってました」
「止めていたら、契約はできませんでしたから」
シェイラは穏やかに答えると、心春の右手を取り、手のひらに火傷の跡がないことを確かめた。
「バーニルは気難しい精霊です。それでもあなたは、その心を開かせました」
「でも、まだ始まったばかりですよね」
「ええ。せっかくですから、少しだけ試してみましょうか」
シェイラは部屋の隅の燭台から、火の消えた蝋燭を一本取ってきた。
「精霊の力を借りる時は、命じるのではなく頼みます。最初の日にお話しした通りです。バーニルに、この蝋燭に火を灯してほしいと頼んでみてください」
心春は蝋燭を受け取り、胸元の紋章に意識を向けた。
バーニル、この蝋燭に火を。
心の中で言い終える前に、紋章が熱を帯びた。次の瞬間、蝋燭の芯から火柱が噴き上がり、天井の梁の手前まで届いた。
「わっ」
心春は慌てて蝋燭を遠ざけた。火柱はすぐに縮んだが、蝋燭は半分ほどの長さになっている。
「加減というものを知らんのか」
「それ、私が言いたいです」
「お前の頼み方が曖昧だからだ。どれくらいの火か、言わなかった」
「普通、蝋燭に火を灯してって言ったら、小さい火じゃないですか」
「私の普通はこれだ」
胸元の紋章が、得意げに温まった気がした。
シェイラは梁を見上げ、焦げ跡がないことを確かめてから、口元に手を当てた。
「火の精霊と契約したばかりの方は、たいていこうなります。頼む側と応える側で、加減の物差しが違うんです。それを少しずつ揃えていくのも、修行のうちですよ」
心春は短くなった蝋燭を見下ろし、もう一度頼み直した。今度は、指先ほどの小さな火を、と言葉を添えて。
芯の先に、ようやく小さな火がともった。その揺れ方まで、不服そうに見えた。
その日の帰り道、心春は何度も胸元に手をやった。服の上からでは紋章は見えない。けれど手を当てるたびに、小さな熱が返ってくる。
家に戻ると、台所で湯を沸かした。父がいつも淹れていた濃いお茶を思い出して、茶葉を少し多めに入れてみる。
「濃すぎる」
一口飲んだところで、胸の内に声が響いた。
「バーニルにも、味が分かるんですか」
「分からん。だが、お前が顔をしかめた」
心春は思わず笑い、湯を足して薄めた。父の淹れるお茶は、これよりもう少し苦かった気がする。いつかこの紋章のことも、父の若い頃のことも、父と向き合って話せる日が来るのだろうか。
「ミハル」
「はい」
「明日も、遅れるなよ」
心春はカップを置き、胸元に手を当てて、小さく「はい」と答えた。




