第111話 譲らない炎
修行の二日目、シェイラは心春を庵の奥へ案内した。突き当たりの小部屋には石を積んだだけの小さな祭壇があり、その上に浅い火皿が一つ据えられている。
「今日は、実際に精霊と向き合ってもらいます」
「向き合うんですか」
「精霊が人の言葉を話すことは、あまりありません。初級のうちは特にそうです。ですが意志や感情は、しっかり伝わってきます。心を通わせた相手には、それが言葉のように届くこともあります」
シェイラが火皿に指先をかざすと、何もなかったはずの皿の上に、小さな炎がぽっと灯った。
「この森には、若い火の精霊が一体住み着いています。呼べば、時々こうして顔を出してくれます」
心春は炎をじっと見つめた。ただの火とはどこか質感が違い、輪郭が時折、意志を持つかのように形を変える。
「近づいてみてください」
言われるまま、心春は祭壇へ歩み寄った。緊張で指先がわずかに冷たくなっている。その手を炎の方へ伸ばしかけた途端、火皿の炎が激しく燃え上がった。
「うわっ」
思わず後ずさると、熱気が頬にちりちりと残った。
「怒っていますね」
「怒って……?」
「あなたの中の迷いを感じ取ったのでしょう。火の精霊は、意志の強さを何より重んじます」
心春は言葉に詰まった。迷いと言われても、すぐには思い当たらない。けれど胸の内を探ってみると、昨日聞いた父のこと、まだ形の見えない修行の行く末、いずれ来るかもしれない戦いのことが、整理されないまま積み重なっていた。心の奥を覗かれたようで、落ち着かない。
「もう一度近づいてみてください。今度は、何のためにここへ来たのかを決めてから」
心春は深く息を吸った。すずなや紬を守りたい。エルフィやシェイラの力になりたい。一つずつ心の中心に据え直していくうちに、指先の冷たさが少しずつ引いていく。
改めて祭壇の前に立つと、炎はさっきほど荒れてはいなかった。それでも、こちらを警戒するように小刻みに揺れ続けている。
「まだ認めてもらえていないようですね」
シェイラが小さく呟いた。
「火の精霊は頑固です。半端な気持ちでは、決して心を開きません」
「どうすれば、認めてもらえるんでしょうか」
「時間をかけて示すしかありません。あなたが本当に、譲れないものを持っているということを」
心春は揺れる炎を見つめた。今日一日で心を開いてもらえるとは思っていない。それでも、この炎の頑なさの奥にあるものを、知りたいと思い始めていた。
その日から、心春は毎日のように祭壇の前へ通った。特別なことは何もしない。火皿の前に座り、炎が灯るのを待って、ただそれを見つめる。灯らない日もあったが、それでも同じだけの時間をそこで過ごしてから庵を出た。
そんな日が幾日も続いた、ある朝のことだった。
「今日も来たのか」
不意に聞こえた声に、心春は辺りを見回した。人の姿はどこにもない。そもそも今の声は、耳ではなく胸の内側に直接響いていた。
「今のは、あなたですか……?」
「私はまだ初級だ。人の言葉は話せない。だが、思いは届くようになったようだな」
炎の揺らめきに合わせて、言葉というより感情そのものが流れ込んでくる。心を通わせた相手には言葉のように届くとシェイラが言っていたのは、このことだったのだと、心春はようやく腑に落ちた。
「毎日来られて、悪い気はしない」
炎がわずかに勢いを増した。
「私はバーニルだ。お前の名は」
「心春です」
「ミハル、か」
バーニルの炎がゆらりと揺れた。
「お前は変わっている。ここへ来る人間は、大抵力を求めて私を使おうとするだけだ。だがお前は、毎日ただ座って私を見ている。何をねだるでもなく」
心春は少し驚いた。自分では意識していなかったが、この炎のことを知りたいという気持ちが、いつの間にか習慣になっていた。
「何も求めていないわけじゃないです。でも、無理に力を借りようとするより、まずあなたのことを知りたいと思って」
炎の揺らめきが、一瞬止まった。
「知りたい、か」
バーニルは繰り返した。それまでの棘のある響きが、ほんのわずかに丸くなっている。
「悪くない考えだ」
その日を境に、バーニルは心春が祭壇の前に座るたびに姿を見せるようになった。口ぶりは相変わらずぶっきらぼうで、簡単に気を許す様子はない。それでも炎の色は、心春が来ると少しだけ明るさを増すようになっていった。
ある日、バーニルの方から問いかけてきた。
「ミハル。お前が譲れないものは何だ」
心春はすぐには答えなかった。火皿の炎を見つめたまま、遺跡の奥で過ごした日々を思い出す。足音を殺し、壁際で息を潜めて、誰にも気づかれないまま朝を待った夜がいくつもあった。
「私、二年近く一人でした」
口に出すと、思っていたより声は落ち着いていた。
「助けに来てくれた人たちがいて、やっと一人じゃなくなりました。だから今度は、誰も一人にしたくないんです。すずなさんも紬さんも、ほかの誰かも。もしどこかで一人になっている人がいたら、私が迎えに行けるようになりたい」
炎は長いこと黙っていた。
「お前の芯の強さ、少しは認めてやる」
「本当ですか」
「調子に乗るな。まだ契約するとは言っていない」
「はい」
それでも、その一言だけで十分だった。火皿に近づけた手のひらに、炎の熱がじんわりと伝わってくる。最初の日に頬を刺したあの熱さとは、もう違っていた。
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