第110話 精霊との対話
紬がクレアと共に旅立った、翌日のことだった。
心春は自分の家の玄関で、出がけにもう一度装備を確かめた。使い慣れた短剣にフィンガーグローブ、肘当て。いつもと変わらない出で立ちなのに、留め具を締める指先が少しだけもたつく。精霊魔法という、これまで縁のなかった分野への緊張と、それと同じくらいの期待があった。
約束の場所は王都のギルドの図書室だった。少し早めに着いたつもりだったのに、扉を開けるとシェイラはすでに書架の前に立っていた。
「お待たせしました」
「時間通りですよ。私が早く来すぎただけです」
シェイラは手にしていた本を棚に戻し、目元を和らげた。レインの調べものに付き添った時は、すずなや紬も一緒だった。こうして二人きりで向き合うのは、これが初めてになる。
「今日から、よろしくお願いします」
「こちらこそ。では、行きましょうか」
二人は王都の東の外れにある森へ向かった。歩みを進めるにつれて木々が密になり、土と緑の匂いが濃くなっていく。街の喧騒が遠ざかり、やがて耳に届くのは葉擦れの音と、二人分の足音だけになった。
「ここが私の拠点です」
辿り着いたのは、木々の中に溶け込むように建つ小さな庵だった。周りには色とりどりの花が咲いている。風はないのに花びらが一枚ふわりと浮き上がり、シェイラの肩のあたりで淡い光の粒に変わって消えた。
心春は思わず足を止めた。王都のギルドでも、シェイラの周りにこんな光が漂っているのを一度だけ見たことがある。
「今のは」
「精霊です。ここは、あの子たちが好んで集まる場所なので」
あの子たち、と呼ぶ声は、人について話す時と少しも変わらなかった。
「これから、精霊魔法の基礎をお教えします」
「よろしくお願いします」
心春が深く頭を下げると、シェイラは近くの木の根元に腰を下ろし、隣を手で示した。心春もそこに並んで座る。
「まず、精霊とは何か。そこから始めましょう」
シェイラの指先に、どこからか光の粒がひとつ寄ってきて止まった。
「精霊は、この世界に満ちる自然の力が意志を持ったような存在です。魔法とは違って、契約という形で力を借ります」
「契約ですか」
「対等な関係です。命令するのではなく、頼むのです。頼みに応じてくれるかどうかは、日頃どれだけ信頼を重ねてきたかで決まります」
自分の魔力を組み立てて放つ魔法とは、仕組みがまるで違う。心春は膝の上で手を組み直した。エルフィから聞いた言葉が、まだ耳に残っている。精霊は、素質のない者には応えない。
「私に、そんなことができるんでしょうか」
「できる見込みは高いと思っています」
迷いのない答えに、心春は顔を上げた。
「どうしてですか。精霊をちゃんと見たのも、今日が初めてみたいなものなのに」
シェイラはすぐには答えなかった。指先に止まった光の粒をしばらく見つめ、それからそっと手を下ろす。
「あなたのお父さんのことを、少しお話ししましょう」
「父のことですか?」
「昔、あなたのお父さんに会ったことがあります」
心春の心臓が大きく跳ねた。
父がこちらの世界にいたことは知っている。南の街で受け取った伝言からも、エルフィと濃い茶を挟んで向き合う父の姿からも、それは分かっていた。けれど、父がここで何をしていたのかは、一度も聞いたことがなかった。
「あなたのお父さんは、若い頃この世界にいました。私が知り合った時には、もう精霊魔法の素質を持っていました」
「父が、精霊魔法を……?」
「初級の精霊と契約していました。才に恵まれていたわけではありません。それでも地道に努力を重ねて、ヘキサゴンにまで上がった人です」
「ヘキサゴン……」
今のすずなや紬と同じランクで、心春はまだその一つ下にいる。台所でいつも少し濃すぎるお茶を淹れていた父の背中が、知らない誰かの背中と重なって、うまく像を結ばなかった。
「その間に、私を含めて何人かのマスターランクとも知り合いました」
「だから、エルフィさんとも」
「ええ。バルドとも面識があったはずです」
心春はしばらく言葉を探した。
「どうして父は、そのことを私に」
続きは声にならなかった。二年近く連絡も取れずにいた間も、父のことは分かっているつもりでいた。それなのに、父の若い日々の一番大きなところが、自分の知らない場所にまるごと置かれていた。
「そんな顔をしないでください」
「すみません」
「あの人には、きっと語れない事情があったのでしょう。だから、あなたにも話さなかったのだと思います」
シェイラの声は、いつも通り穏やかだった。
「それは、どんな事情なんでしょうか」
「それは、私が話すことではありません」
シェイラは首を横に振った。
「本人にしか語れないことを、横から私が埋めてしまうのは正しくありません。お父さんのことは、いつかあの人の口から聞いてください」
はぐらかされたというより、大切なものを預かったまま、手渡す時を待っているような答えだった。心春の胸のざわめきが、少しずつ凪いでいく。
「ありがとうございます」
「お礼を言われることではありませんよ」
シェイラは立ち上がり、裾についた土を軽く払った。
「では、始めましょう。精霊が応えるかどうかは、あなたがあの人の娘だからではなく、あなた自身で決まります」
心春は大きく頷き、立ち上がった。シェイラの後について庵の奥へ足を踏み入れると、さっき消えたはずの光の粒がひとつ、心春の肩先をかすめて通り過ぎていった。




