第108話 闇の眼
紬がクレアのもとで修行を始めてから、早くも二週間近くが経っていた。
あの翌朝、さんざん迷った末に、紬は結局黒い装束に袖を通した。着てみれば動きやすく、夜の森では確かに体が闇に溶け込む。ただ、一緒に添えられていた眼帯と包帯だけは、今も衣装箱の底にしまい込んだままだった。
最初は構えるだけで姿勢が崩れそうになった魔銃も、今では驚くほど手に馴染んでいる。夜目を研ぎ澄ませ、暗闇の中で的を捉える感覚も、少しずつ体に染み込んできていた。
「お前は、想像以上に飲み込みが早い」
クレアの評価は決して大げさではなく、的の中心を捉える回数も日ごとに増えている。
ある日の修行の終わり、クレアは家から持ってきた細長い包みを解き、新しい魔銃を取り出した。
「明日からは、この銃で修行を行う」
差し出されたのは、これまでのものより一回り大きく、装飾も格段に精緻な魔銃だった。銃身に刻まれた魔法陣も、ずっと複雑な形をしている。
「今までの銃よりも、精度も威力も遥かに高い。ただし」
クレアはそこで一度言葉を切った。
「その分、さらに繊細な魔力の扱いが求められる」
紬は両手で受け取った。ずしりとした重みは明らかに増していて、手のひらに伝わる魔力の気配も、これまでよりずっと濃い。
「頑張ります」
「良い返事だ」
クレアは頷き、それから思い出したように紬を見た。
「それと、もう一つ」
「はい?」
「衣装箱の底に、眠らせている物があるだろう」
紬の肩がびくりと跳ねた。
「な、何のことでしょう」
「眼帯だ。お前を更なる深淵へと導く。闇の眼を得るために、片目を封印する」
どうやら、とうに見抜かれていたらしい。
「片目を封印するって、どういう」
「文字通りの意味だ。片目の視覚を制限することで、残った目の感覚がより鋭くなる。闇の使徒として、避けては通れない修練だ」
「い、いや、それ単純に見えにくくなるだけじゃないですか」
紬はたまらず突っ込んだ。
「浅はかな考えだ」
クレアは真剣な表情で首を振った。
「私自身、これによって闇そのものと同調する感覚を得た」
「本当ですか……?」
紬は半信半疑のまま、クレアの眼帯を見つめた。その下がどうなっているのか、確かめる勇気は今もない。
「疑うなら、実践あるのみだ。持ってこい」
家に駆け戻り、衣装箱の底から眼帯を取り出してくると、紬は恐る恐るそれを顔に当てた。思いのほか厚みがあり、ただの布にしては妙に存在感がある。意を決して右目を覆うと、視界の半分が闇に閉ざされた。慣れない感覚に、思わずよろけそうになる。
「うわ、思ったより見えにくいです」
「最初は誰でもそうだ。だが、すぐに慣れる」
クレアはいつもの調子で頷いた。
「残った左目に意識を集めろ」
言われたとおり左目に意識を集中させてみると、確かに、周囲の輪郭がはっきりと感じられる気がした。
「あれ、なんか見えやすくなってる……?」
「片目の分を、もう片方が補おうとする。夜目の力も、それにつれて鋭くなる」
いつになく理にかなった説明に聞こえて、半信半疑だった気持ちが少しずつ揺らいでいく。
「では、この状態で的を狙ってみろ」
「はい」
紬は新しい魔銃を構えた。銃の重みが、いつも以上に腕にかかる。
「魔力を丁寧に流し込め。前の銃より繊細な扱いが必要だ」
慎重に魔力を込めていくと、銃身の魔法陣がいつもより鮮やかに光り始めた。左目だけの視界は最初こそ不安定だったが、集中を深めるうちに、的の輪郭が次第にくっきりと浮かび上がってくる。
今だ、と思った時には、もう引き金を引いていた。放たれた光の弾丸が、的の中心を正確に射抜く。
「今の……」
紬は自分の目を疑った。これまでで、最も正確な一撃だった。
「見たか」
クレアが満足げに言った。
「片目を封じたことで、感覚が研ぎ澄まされている」
「本当に、効果あったんですね……」
紬はまだ半分驚きながらも、その結果を認めるしかなかった。
「これからは、この状態を基本として修行を続ける」
「はい……」
そう答えたものの、紬の表情は晴れなかった。効果はある。それは間違いなさそうだ。それでも、この見た目だけはまだ受け入れきれない。今すぐ鏡で自分の姿を確かめたかったが、思い返してみれば、あの黒い家には鏡が一枚も見当たらなかった。
「闇とは、恐れるものではない」
クレアが、自分の眼帯に指を添えて言った。
「光の届かぬ場所にこそ、真実が宿る。眼を封じ、感覚を研ぎ澄ませることで、私たちはその真実に近づくことができる」
「はあ……」
紬は曖昧な相槌を打った。
「それ、本当に闇と関係あるんですか」
「疑うのも無理はない。だが、結果が全てを物語っている」
クレアは、さっき紬が的を撃ち抜いた瞬間を、やけに芝居がかった調子で語り直し始めた。闇を裂く一閃、封じられし右眼の覚醒と、仰々しい言葉が次々と並んでいく。聞いているうちに、紬はだんだん顔が熱くなってきた。
「さらに力を得るためには、もう一つ工程がある」
「まだ、あるんですか……」
げんなりした声が漏れた。
「左手の動きに、制限をかける。衣装箱には、もう一つ入っていたはずだ」
紬は嫌な予感とともに、もう一度家へ駆け戻った。衣装箱の底に残っていたのは、くるくると巻かれた白い包帯だった。
「包帯、ですか」
「封印用の包帯だ。左手を封じることで、右手の動きの精度が飛躍的に上がる」
「あの、それ、銃を支える手が使いにくくなるだけじゃ」
紬はすかさず突っ込んだ。
「浅はかな考えだ」
クレアは、また同じ台詞を繰り返した。
「不要な動きを制限することで、必要な動きにだけ意識を集められる」
紬は手の中の白い包帯を、まじまじと見つめた。黒い装束に身を包んだうえに片目を封じ、さらに片手まで封じる。これではまるで、どこかの物語に出てくる、封印された魔王のような出で立ちだった。
「あの、そこまでする必要が、本当にあるんでしょうか」
「必要だ」
クレアの返答は、いつもどおり迷いがなかった。
「闇の使徒として、極限まで研ぎ澄まされた力を得るには、相応の代償がいる」
紬は何とも言えない表情を浮かべながら、包帯を左手に巻きつけ始めた。くるりと一巻きするごとに、自分の中の何かが遠ざかっていく気がする。
「先輩には、見せられないです。これ……」
ぽつりとこぼした呟きに、クレアは聞こえなかったふりをして、ただ深く頷いていた。




