第107話 一人の夜
王都のギルドの前で紬の背中を見送った後、すずなは心春と別れ、一人きりの家に戻った。心春もまた、明日からシェイラのもとで修行を始めることになっている。
扉を開けた瞬間、いつもと違う静けさが家の中に満ちていることに気づいた。灯りをつけても、それは少しも和らがない。
この家で暮らし始めてから、紬のいない夜を過ごしたことがあっただろうか。思い返してみても、すずなには覚えがなかった。旅の道中も、依頼の最中も、何気ない毎日の中でも、紬はいつも隣にいた。昼間に別々の用事で出かける日があっても、夜になれば必ず「ただいま」の声がこの家に響いた。
すずなは台所に立ち、夕食の支度を始めた。鍋に水を張り、野菜を刻み、いつものように手を動かしていく。煮立ってきたところで、すずなはふと手を止めた。鍋の中のスープは、どう見ても二人分あった。
「作りすぎちゃいました」
誰に言うでもない呟きが、台所にぽつりと落ちた。
居間のテーブルに皿を一枚だけ並べ、すずなは一人で匙を取った。味はいつもと変わらないはずなのに、どこか物足りない。向かいの席に話しかけそうになって、そのたびに口をつぐんだ。普段なら、この時間は紬の話に耳を傾けているはずだった。今日あった出来事や、ちょっとした愚痴や、他愛のない冗談が、今は何一つ聞こえてこない。
食後にお茶を淹れようとして、すずなは棚から無意識にカップを二つ取り出していた。手の中の二つを見下ろし、しばらく迷ってから、一つを棚に戻す。テーブルに置かれたカップが一つきりなのを見て、すずなは深く息を吐いた。
紬は今頃、クレアのもとでどうしているのだろう。言動には驚かされたけれど、悪い人ではなさそうだった。エルフィが腕前を保証するくらいなのだから、実力も確かなのだろう。それでも、慣れない場所で無理をしていないか、ちゃんと夕食をとれているか、心配が頭の片隅から離れない。
湯気の立つカップを両手で包むと、別れ際に握った紬の手の温もりがよみがえった。すぐ終わりますから、と精一杯明るく笑った顔も、そのまま歩いていった背中も、まだはっきりと目に焼きついている。紬は一度も振り返らなかった。それが紬なりの覚悟なのだと、すずなには分かっていた。分かっていても、一度くらい振り返ってほしかったと思ってしまう自分がいる。
明日からは、すずなにもレインとの修行が始まる。時空魔法という、まるで見当のつかない分野だった。図書室の床一面に広がった、巨大な時計のような魔法陣が頭に浮かぶと、自分にあんなものが扱えるようになるのか、不安の方が先に立つ。それでも、紬もきっと同じように、慣れない場所で踏ん張っているはずだった。
すずなはカップを洗って棚に戻し、寝室へ向かった。ベッドに横になっても、廊下の向こうの紬の部屋からは物音一つ聞こえてこない。寝返りを打つ気配も、夜中にこっそり水を飲みに起きる足音も、今夜はない。
「明日から、私も頑張らないと」
小さく呟いた声は、誰もいない部屋に吸い込まれて消えた。
早く、成長した姿で紬に会いたい。会った時に、胸を張って話せることを一つでも増やしておきたい。
カーテンの隙間から、夜空に星がぽつぽつと瞬いているのが見えた。この空の下のどこかで、紬も同じ星を見ているだろうか。そんなことを思いながら、すずなはゆっくりと目を閉じた。




