第102話 待つことしかできない
三人は、ギルドの一室に取り残されていた。
窓の外はいつの間にかすっかり日が暮れ、テーブルの上に置かれたランプの灯りだけが部屋を淡く照らしている。木の壁に映る影が、灯りの揺らめきに合わせてかすかに震えていた。
誰も何も言わない。ただ、時折、誰かが小さく息を吐く音だけが、静かな部屋に響いている。
すずなは膝の上で組んだ両手に、無意識に力がこもるのを感じていた。
今、あの三人はかつて自分たちの手に負えなかった何かと向き合っている。力になれない無力さが、じわじわと胸を締め付けていた――壁にかかった古い時計の針さえ、いつもより遅く進んでいるように感じられるほどに。
「先輩」
紬がそっと顔を覗き込む。
「大丈夫ですか」
「はい……ちょっと、不安になってしまって」
思ったより小さな自分の声に気づく。喉の奥はいつの間にか渇いていた。
「私達がいた方が、良かったんでしょうか」
膝の上に置かれた手が、無意識に短剣の柄の位置を確かめるように動く。心春だった。
「Fable Unboundを持ってる、すずなさんはともかく、私たちはあの場では、ただの足手まといだったかもしれません」
「そんなこと」
紬が反論しかけて、言葉が止まる。心の底ではその言葉を否定しきれない自分がいると、気づいてしまったからだった。
三人はそれぞれの無力さを、それぞれのやり方で噛み締めていた。強くなったつもりでいた。試練を乗り越え、加護を得て、少しずつ確かな力を積み上げてきたはずなのに。それでも今この瞬間、自分たちにできることは、ただ待つことだけだった。
いつもよりずっと遅く感じられる、時間の流れ。
窓の外で、鳥の鳴き声が一つ遠く響いた。
すずなは自分の手のひらを、ふと見つめる。この手で、これまで何度も大切なものを守ってきたはずなのに、今はただ震えを抑えることしかできない。指先がわずかに冷たくなっているのが分かった。
「早く戻ってきてほしいです」
紬の声には、いつもの明るさが少しも感じられない。
誰もそれに答えず、三人は静かにその時を待ち続けた。
ふと部屋に満ちる沈黙が、一つの疑問を浮かび上がらせる。
「そもそも、なんで私たちも南まで連れてこられたんでしょう」
心春がそう切り出すと、紬とすずなも同時に顔を上げた。ちょうど同じことを考えていたところだった。
「言われてみれば、そうですね」
すずなの眉間に、かすかな皺が寄る。
「エルフィさんたちなら、南までの移動くらい、いくらでも簡単にできたはずです」
「異世界間の移動と違って、同じ世界の中の移動ならなおさら」
紬がそう続けた。すずなはその違和感に気づく。エルフィ、シェイラ、レイン。三人とも、それぞれの手段で瞬時にこの街まで来られたはずなのに、なぜわざわざすずなたちまで一緒に連れてきたのだろう。
「何のために私たちを連れてきたんでしょうか」
心春の問いに、誰も答えを持っていない。
単に状況を共有するためだけなら、後から説明すれば済んだはずだ。それなのにエルフィは、わざわざこの場に自分たちを立ち会わせた――すずなはその疑問を、頭の中で何度も反芻する。
もしかすると。
その先を考えかけて、思わず息を止める。胸の奥に小さな予感が、冷たく差し込んできた。
「もしかして」
「先輩?」
すずなの様子に気づいた紬が、心配そうに声をかける。
「これから起きることに、私たちも無関係じゃいられないっていうことなんじゃ」
その言葉が、部屋の空気をまた一段と重くする。
誰もそれ以上何も言えないまま、それぞれの胸の中で同じ予感が静かに広がっていった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
扉が静かに開いた。
「戻ったぞ」
エルフィの声だった。三人は同時に顔を上げる。
その後ろから、シェイラとレインも部屋に入ってきた。三人とも出て行った時よりも、表情に疲労の色が滲んでいる。装束の裾にうっすらと土埃がついているのが見えた。
「どうでしたか」
すぐに立ち上がり、すずなはそう尋ねた。
「思ったより、進行が早い」
椅子に腰を下ろしながら、シェイラがそう答える。深く息を吐く音が、静かな部屋に響いた。
「封印の魔法陣は、確かに綻び始めている。あとどれくらい持つかは、正直、私にも読めない」
「そんなに悪い状況なんですか」
「悪い」
その一言が、はっきりと口にされた。
「このままいけば、遠からず封印は完全に崩れる」
部屋の空気が一気に張り詰め、ランプの灯りがわずかに揺らいだ気がした。
「崩れたらどうなるんですか」
震える声で、すずなはそう尋ねる。
「あの日と同じことが起きる」
シェイラの緑がかった瞳に、遠い過去を見るような影が差した。
「向こう側から何かが押し寄せてくる」
その言葉に、思わず息を呑む。
「それを止めるために、必要なことは」
そう切り出すと、レインのまっすぐな視線が返ってきた。これまで感じたことのない静かな覚悟のようなものが、そこには宿っていた。
「お前の力が必要になる」
その一言が、静かに、けれど確かに部屋の中に落ちる。
「私の、力……?」
思わずそう繰り返す、すずな。
「Thorn bound Fateだ」
その一言に、背筋がぴんと張り詰めた。
「あの試練は、逃れられない運命の到来がモチーフだと聞いていた。今回のこれがその運命だとしたら」
「私が、挑まないといけないってことですか」
「まだ、断定はできない」
レインの片眼鏡の奥の目が、いつになく真剣な色を帯びている。
「だが、封印の崩壊とお前の未着手の試練。この二つが無関係だとは思えない」
すずなはその言葉を、静かに受け止めた。頭の中でこれまでのことが少しずつ繋がっていく。Thorn bound Fateが、逃れられない運命として、いずれ自分の元に訪れる――その予感は、既に何度も感じていたものだった。
「だから最初から連れてきた」
レインの言葉が続く。
「もし試練が発動すれば、お前はこの場にいる必要がある。後から呼び戻す時間さえ、惜しいかもしれない」
「そうだったんですね」
ようやく合点がいく。わざわざ南まで連れてきた理由。それは最悪の可能性を見越した、用心深い判断だったのだ。
「紬と心春を連れてきたのは」
「お前が挑む時、隣にいてほしいと思う相手は、お前自身が一番分かっているはずだ」
エルフィの、素っ気ない答え。それでもその言葉の奥にある配慮に、すずなは胸が熱くなるのを感じた。
「先輩」
紬がそっと手を握る。その手はいつもより少し冷たく、それでいてしっかりとした力がこもっていた。
「何があっても私は隣にいますから」
「私も微力ですが、力になりたいです」
心春もそう続けた。二人の言葉を受け止めながら、すずなは静かに頷く。これから何が起きるのか、まだ全ては分からない。それでも一人ではない――その事実だけが、今、確かな支えになっていた。
窓の外では、夜がすっかり深まっている。星の見えない曇り空の下、南の街は静かに、けれど確かに何かの始まりを待っていた。
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