第101話 封印の綻び
「昔、封じた扉というのは」
ガレットが恐る恐るそう尋ねた。声には隠しきれない緊張が滲んでいる。
部屋の中の空気が、一段と重くなる。窓の外はいつの間にか、夕暮れ時の橙色に染まり始めていた。この部屋だけが時間の流れから切り離されたような異様な静けさに包まれ、橙色の空の、遥か先にあるはずの南の方角へ、誰からともなく視線が吸い寄せられていく。
「異世界から脅威が押し寄せてきたことがある。私やレイン、シェイラ、他数名のマスターランクで、それを食い止め、封印した」
エルフィの声はいつになく低く、抑揚が乏しかった。それがかえって事の重大さを物語っている。
「その封印が、今になって綻び始めているということですか」
メイルが険しい表情でそう確認した。長年ギルド長を務めてきた顔にも、隠しきれない動揺が浮かんでいる。
「可能性が高い」
レインのその一言は、普段の饒舌さからは考えられないほど重かった。代わりに、研究者としての鋭い眼差しだけが残っている。
「地面の発光は、封印の魔法陣が何らかの理由で不安定化している兆候だ。魔獣が逃げ出したのも、その場所から漏れ出す異質な気配を、本能的に察知したためだろう」
「不安定化の原因は、分かるんですか」
すずなは、不安と緊張が入り混じった声でそう尋ねた。
「わからん。まだ断定はできない」
静かに首が振られる。
「経年劣化かもしれないし、何か外部からの干渉かもしれない。現地を直接調べる必要がある」
「封印から一番近い集落まで、避難させるべきでしょうか」
メイルがすかさずそう尋ねた。ギルド長としての実務的な視点が、その一言に滲んでいる。
「まだ判断できる段階じゃない。まずは様子を見てからだ」
エルフィの返答に、メイルは短く頷いた。
「では今からでも」
紬がそう切り出しかけたところで、エルフィが手を上げてそれを制する。
「待て」
その一言だけで、部屋の空気が凍りついたように静まった。
「まずはシェイラ、レインと私の三人で様子を見る」
「御三方だけで、ですか」
すずなは戸惑ったようにそう聞き返した。目には、置いていかれることへの不安と、何かがあった時に力になれないもどかしさが浮かんでいる。
その隣で、心春はただ黙って自分の手を握りしめていた。この異変を最初に見つけたのは自分だという事実が、今になって重くのしかかってくる。もっと早く何かに気づいていれば。そんな思いが、胸の奥で燻っている。
「お前たちを危険な場所に無闇に連れて行くつもりはない」
エルフィの声には、有無を言わせない響きがあった。普段の飄々とした調子とは、まるで別人のような重みがある。
「まずは私たち三人で状況を確認する。それから、必要な対応を決める」
その言葉にすずなは何かを言いかけたが、喉の奥で飲み込んだ。今のエルフィの様子からこれ以上の反論は難しいと、肌で感じ取っている。
「メイル、ギルド内に指示を。お前たちは街の警戒に回ってくれ。周辺の避難態勢も念のため整えておけ」
「承知しました。近隣の集落への連絡と、避難経路の確認もすぐに手配します」
メイルは即座にそう答えると、深く頭を下げた。ガレットもそれに続いて頭を下げ、二人は足早に部屋を出ていく。
テキパキと指示を出すエルフィの姿は、いつもの飄々とした様子とは、まるで別人だった。その横顔には、これまで見たことのない強い緊張と決意が刻まれている。
残されたすずな、紬と心春の三人は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。何もできない自分たちのもどかしさが、静かな部屋の中に重く沈んでいく。
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