7-42.雪の音の中で
頭が割れたロロイスの体から力が抜ける。主を失った狼たちは、なおもこちらを睨みつけているが、積極的に襲いかかりもなかった。
「がおー! 来るなら来なさい!」
アンリがもふもふを迫らせれば、狼は追い散らされた。これからは野生の狼に戻って暮らし続けるのだろう。
後には死体だけが残った。白い雪原のあちこちに死体が転がり、血で赤く染まっていた。動くものは降る雪だけ。
「……ジェスターは?」
「あれだ。森の方に移動したらしい」
キアが指差したのは、ジェスターたちの姿ではなく大きな熊の足跡。他の獣の足跡に紛れてわかりにくいが、キアは的確に見分けていた。
「見りゃわかるだろ。他のより大きいし、雪が降ってる中で比較的新しい足跡だって」
「さっぱりわからない」
「自然の観察が足りないな。熊は奥の方に逃げた。ジェスターはそれを追いかけたんだろな」
「空を飛んでね」
「ああ。こっちだ」
足跡を辿って歩く。洞窟地帯の端から、森がまた始まった。そこに入ったらしい。
白い熊はその場で留まって戦おうとしていた。どうして移動があったのか。
――――
白い熊の動きを見極め、足を掴まれない高さを保ちながら、少し下降して頭を蹴らせる。そしてすぐに上昇。タイミングを見極めるのは難しいが、なんとかやれていた。
ジェスターがパタパタに指示を出す。口で言っている暇はないため、足で胴を蹴って合図としている。
熊の大きな手がパタパタの足を掴むことがあれば、一瞬で折れていまうだろう。そうなればパタパタはもう、まともに生きていくことはできない。安楽死しか未来はない。
そうはさせない。ジェスターは真剣だった。
「……ははっ」
一方で、ずっと追ってきた仇をようやく見つけて翻弄している。その事実に気持ちが高ぶっているのも確かだ。
馬に蹴らせるだけで、見るからにタフな熊を殺せるとは思っていない。空中では踏ん張ることもできないし、蹴りも大した威力は出ない。
でも、熊を怒らせ冷静さを失わせることはできた。注意をパタパタに引きつけて、上に乗っている人間のことは忘れさせる。
足で指示を出しながら、矢をつがえて弓を引く。時間をかけずに狙って、放つ。
こちらに向いている真っ赤な目の片方に真っ直ぐ刺さった。そのまま死なないかと期待したがそこまでではなく、熊の片目を奪っただけだった。
痛みと怒りに狂った熊が足に力を込めて、重い体をわずかに浮きあがせる。パタパタは絶対に届かない高さまで舞い上がって回避したが、両者の距離は離れてしまった。
熊は、こちらに背を向けて逃げてしまう。森の方だ。すかさず狙おうとしたが、無理だと悟る。
相手の速度が早すぎる。片目を奪われても足は健在。ただでさえ当てるのが難しい中で、雪で視界が悪いし白さに溶けこむ体毛も厄介。そしてこちらは矢が少なく無駄遣いできない。
「追うぞ」
パタパタに言えば、彼女は短く鳴いて追いかける。彼女も、ここで仇を逃がすつもりはないのだろう。
片目を失った手負いの獣は、自然界で生きるのが難しくなるだろう。負ったハンデを補うために、奴はより凶暴になるに違いない。したたかな野生ではなく、脆弱な人間を狩りの対象にするために、人里に向かう可能性もある。
負傷させた人間として、ここで仕留める責任があった。
足跡を残して森に消える熊。僅かだが血跡もある。すぐに降り積もる雪に隠れてしまうそれを追いかけ、森の中に入った。
木々の枝葉で、上からは地面の様子も見えない。パタパタの羽を休める意味もあり、地面に降り立ち足跡を見る。
途中で途切れていた。近くには何本か木がある。
熊は木を登れる。足跡を辿られないよう、上に逃げたのだろう。見上げれば、雪が積もった枝があちこちにあり、視界は悪く姿は見えない。けれど、どこかに熊がいる。
木の幹から隣の木に移動はできるだろうか。高さがあれば飛び移るのも不可能ではなさそうだ。
不意にどさりと音がした。雪がまとまって落ちた音だ。熊が飛び移ったのかと思ったが、積もった雪に枝が耐えきれなくなっただけ。
しかし熊が木の上で動けば、これ以上の音がするだろう。枝はあの巨体を支えきれないし、身じろぎした時点で雪が落ちるし枝葉同士が擦れて音がする。
「パタパタ、耳を澄ませ。奴はどこかにいる。俺たちが来る前に別の木から飛び移ったかもしれないが、ずっと木の上にいることはできない」
いくら奴の腕力が強くても、巨体でしがみつけばいつか限界が来る。
「周囲を警戒しろ。音に注意するんだ。大丈夫。時間はこちらの味方だ」
短く鳴いたパタパタの頭を撫でて、ジェスターは地面に降りた。
「なにか見つけたら鳴いて知らせてくれ。俺は奴の足跡を探す」
一応、こちらが追いつくまでの時間差の隙に、別の木に跳び移るのではなく地面に降りて、木々の陰に身を隠したり逃げたりした可能性もある。しかし奴の途切れた足跡の周りに、その痕跡は無かった。巨体が着地したような別の足跡があるはずだが。
間違いなく、奴はまだ木の上にいる。どこだ?
周囲の音に注意を払う。白い熊の出す音を聞き逃さないように。奴の唸り声や、腕力が木の幹の表面を砕く音。かならずあるはずだ。
雪山は静かだ。あるのは、雪が降る音だけ。ぼとぼと。ぼとぼと。綺麗とは言い難い濁った音に囲まれながら、ジェスターは己の呼吸すら忘れて耳に意識を集中させる。
ぼとぼと。ぼとぼと。
ぼとぼと。
ぼとぼと。
がさり。




