7-1.熊狩り
雪の降る音というものがある。
文学の中では「しんしん」と降るものらしい。
きっと最初にそう表現した者は、雪が降る地方の出身ではないのだろう。降った後の光景だけ見て、一面の銀世界に美しさに綺麗な音を当てただけ。
実際に雪の中に身を置けば、そんなもの嘘だとわかる。
雪とは空から降る小さな氷の塊だ。溶ければ水になる。
だから降る音は、雨音を遅くした感じだ。「ぼとぼと」と表現した方が合っている。
その狩人はまさに、ぼとぼと音の中に身を隠していた。
険しい山岳地帯を覆う森の中。木々の間でじっと身を潜め、弓を構えながら獲物の出方を見極める。
昨夜から降り続いている雪は地面を覆い、動けば足跡を残してしまう。目に映る色彩は、その白か、木々の茶色と緑が大半。その中で僅かに見える獲物をじっと観察していた。
獲物はこちらに気づいていないが、木の陰にいて見えているのは極わずか。そこを狙っても深手は負わせられない。
こちらが少しでも動けば、たちまち音で獲物は気づく。足音や衣擦れ、吐息でさえも命取り。気づいた獲物が逃げるならまだいい。こっちを逆に獲物と認識して襲いかかれば、ひとたまりもない。
だから、じっと息を潜める。耳朶を打つのは雪の降るぼとぼと音だけ。冬の山に、他に動くものはない。
ふと、獲物が身じろぎした。獲物を探しに行くのか、のっそりと歩いていて姿を見せた。
成人男性である彼よりもふた周りは大きい熊だった。この付近の村で農作物や冬の備えの食料を荒らしまわっている極悪熊。
このラロシエリの山岳地帯の冬は厳しい。これ以上冬を越すための蓄えを奪われるわけにはいかない。
放っておけば、熊はまた人里に降りてくる。自然の中で食料を探すより、村から奪った方が楽だ。食料が集まっているからな。人間の蓄えだけじゃない。人間自身も奴らには食い物の一種だ。
だから殺す。人は熊と共生できない。
よく狙いを定め、射る。熊の片側の前足の付け根に刺さった。突然の痛みに咆哮をあげる熊を睨みながら、狩人は次の矢をつがえて放つ。もう一方の前足にも命中。
しかし熊の機動力を封じるには至らなかった。前触れなく現れた敵を睨んだ熊は怯えたり戦意を喪失したりせず、狩人への敵意を表明するように唸り声をあげた。
予想の範囲内だ。熊がこちらに全力で突進するまでの間に、もう一度矢を射た。熊の片目を射抜いたそれは致命傷を与えるには至らず、向こうの怒りを増幅する結果となった。
怒り狂った熊が、負傷しぎこちない動きとなった片腕を振り上げて狩人を殺そうとした。が、傷ついた体の動きは緩慢で、彼を仕留められるものではない。足場の悪い雪の上を移動して、熊の攻撃をギリギリで回避した。
熊の爪はそのまま、狩人の背後にあった木に刺さる。さすが熊の爪は頑丈で、折れたり手から剥がれたりすることはなかった。しかし力加減を間違えたのか、深々と刺さった白い爪は木から抜くのに手間がかかるらしかった。
片目を失って、目測を誤った。こうなることは、最初から狩人の想定通りだった。
大きな隙ができた熊に狩人は肉薄して、ナイフを抜いて獲物の首に刺した。熊のどこに刺せば死ぬかを、彼は熟知していた。
流れ出た血が雪を染め、熊は死んだ。一撃で仕留められたのは幸いだった。ナイフ一本で絶命には至らない頑丈な熊もいるし、致命傷を負ってなお最後の力を振り絞って刺し違えようとする熊もいる。
彼が本当に殺したい熊は、きっとその類だ。
周囲に他の野生動物の姿はない。が、血の匂いを嗅ぎつけていつ来るかはわからない。
彼は素早く熊の腹を切り開く。内臓から胆嚢を切除して手に入れた。
この熊をまるごと集落へ持ち運ぶのは無理だ。肉や毛皮に利用価値はあるから、放っておくのも勿体ないが、やるにしても一度村に戻らないと。
胆嚢は持ち運びやすく、利用価値も高いから売れる。何より殺した証明になる。
慣れた手付きで素早く切り取り、残りは放置して村へと戻っていった。
さっきの熊の被害に遭っていた小さな村の人々は、彼の帰りを心配そうに待っていて。狩人の姿を見た時は安堵の表情を見せた。
「ジェスターさん! ああ良かった。成果はいかがでしたか」
狩人、ジェスターは無言で胆嚢を見せた。村たちはどよめいて、次に彼へと感謝の言葉を次々に投げかける。ジェスターから、熊の死体を運ぶために人手が欲しいと言われれば、若い衆をすぐにまとめてくれるとのことだ。
これで村は救われた。冬を越せる。あの熊に食料を奪われて困っていた。村の娘もひとり殺されていた。彼女も浮かばれる。
依頼を受けた時に伝えられたことを繰り返し言われている間も、ジェスターの頭の中は別のことを考えていた。
あの熊は大した相手ではなかった。ジェスターが倒すべき熊は別にいる。この山に間違いなくいるはずだ。
熊というより、怪物らしい。雪に紛れる純白の体毛と、不吉な真っ赤な目を持つという、怪物。あるいは、なかなか人前に姿を現さないことから、亡霊に例えられる。
それを殺すまでは、どんな称賛も受ける気になれなかった。
再び山を登り、森の中で仕留めた熊の遺体を見せて、村の者たちが歓喜し改めてお礼を言われている間も、ジェスターはひとり取り残された気分だった。




