4-33.可哀想な人
ゾーラも、別に期待していなかったのだろう。キッチンに戻って張り紙の作業を再開した。
「ホイのためを思うなら、あの女には早いところ出ていってほしいのよね」
「そうなの? どうして?」
今のはゾーラの愚痴みたいなものだから、独り言として言わせておけば良いとはわかってるのだけど、アンリは相槌を打った。仲間だからね。疲れている時の愚痴を聞いてあげるだけで、元気になれることはあるとアンリは知っている。
「あの人は会話をしない。何かやって欲しいと思った時は、誰かにお願いをすることはない。周りが察するまで不機嫌な姿を見せるの。良くないわね。人間は言葉を使える生き物なのに」
「確かに。ホイの教育にも悪いわね」
ホイだって言葉は話せる。けど不完全だ。長いこと狼の中にいて、言葉を使ってこなかったから。
話していれば、それが読み書きを覚えることにも繋がる。なのに身近に、話さないで意思を伝える人間がいるのは良くない。
ガチャンと、食器を鳴らす音が聞こえた。
「今のはナーサが、あたしたちの話を聞いて不機嫌だって伝えようとする音よ。不機嫌だと動く時の音が大きくなる人、心当たりない?」
「あ。孤児院の先生がそうだったかも」
「うるさいわね! 静かにしなさい!」
「ようやく話してくれたわねー」
たぶんゾーラは、ナーサみたいな人間が好きではないのだろうな。だからって挑発することないと思うけど。お客さんの立場でやることじゃない。
ホイのためなのかな。
ナーサは食べ終わった食事をテーブルの上に置きっぱなしにして、食堂を出ていく。
「ちょっと。あなたに洗い物までは期待してないけど、せめて食器はこっちに持ってきなさいな」
返事はない。代わりにドスドスと大きめの足音が聞こえる。なるほど動きの音が大きい。
二階の部屋に行くかと思えば、彼女は玄関に向かっていた。
「お出かけ? 身重には辛いんじゃない?」
ゾーラの声にも返事せずに、彼女は出ていった。
「勝手にしなさいな。お腹の子には罪はないから、妊婦が用事もないのに出歩いて危険になるのは嫌だけどね」
「そうね……」
追い出したゾーラも、少しばつの悪い顔をしている。好きな相手ではないけど、喧嘩を売ってしまったかもと。
アンリも少し心配だった。声をかけられたナーサは、一瞬だけこちらを見た。
寂しそうな顔をしていた。
「アンリちゃん。洗い物手伝って」
「ええ。わかったわ」
言われて、テーブルまで食器を取りに行く。
窓の外でキアが、ホイに歩く訓練をさせていた。
「よーし。いいぞ。ほらこっちだ。立って手を伸ばさないと掴めない。頑張れ頑張れ」
「ほしい。それ、あまい」
「だよなー。頑張れ」
キアはひっきりなしに声をかけて、それが部屋の中まで聞こえてくる。
たぶん、ナーサが部屋に戻らず外出を選んだ理由が、これなんだろう。うるさいんだ。余所者である客が、家の敷地でなにかしている。見ないようにしても声は聞こえてくる。
それから逃げたかった。追い出すこともできないし、この家の人間じゃないと言い張ってる以上は家長のオルソンの方針に口出しできない。
あの人には居場所がないんだな。あの寂しそうな顔は、そういう意味なのだろう。
キアの訓練は単純なものだった。果物を買ってきて、ひと欠片をホイに食べさせて味を覚えさせる。そして残りを食べさせない。立って頭上に果物を掲げているキアを、ホイは物欲しげに見つめている。
欲しいなら、立つしかない。
ホイは四つん這いのままキアを追いかける。たまに、両手を地面から離すこともある。常に地面についている膝も、時折離れることがある。
いけるかも。立てるかも。
「その調子だ。いいぞ。とりあえず立つことを考えろ。口の位置を高くするには立つしかない。おっと」
持ったリンゴを追いかけてくるホイに、キアは後ろ歩きで距離を取っている。すると背中が柔らかいものに当たった。
「よう、もふもふ。乗せてくれ」
フランクに話しかけたキアに、軽く鳴くことで応えるもふもふ。否定ではない様子で、キアはひらりと鞍上の飛び乗った。
「元気か? ずっと外で寂しいよな。あ、これ食いたいか? でもホイのだしなー。おっと。わかったわかった」
キアの持ってる果実を見つめるもふもふ。欲しがっているらしくて、首をひねって目をそちらに向けていた。
「後で他のをやるからな。おっと。ホイ頑張ってるか? そっかそっか。赤ん坊ってよく考えればいきなり立たないよな。掴まり立ちが最初だよな」
果実に目を向け続けていたホイは、両手をもふもふの胴に伸ばしていた。毛並みを掴んで、体を起こそうとして。
「ちょっとキア! やめさせて! もふもふに乱暴なことしないで! そんな力いっぱい掴ませたら痛いでしょ!」
アンリはすかさず、窓を乗り越えて外に出た。そのままホイを押しのけて、キアの足を掴んで引きずり降ろそうとした。
「あ! おい! やめろ何しやがる!」
「降りて! キアがもふもふに乗ってると可哀想!」
「ひでえ言い草だなおい! うわっ!? ぐえっ!?」
キアを引きずり下ろした。地面に倒れたキアのお腹の上に乗って台の代わりにした。大した高さじゃないけど。
もふもふが膝を折って姿勢を低くしたために、アンリはこの巨大な馬に子供の体で容易に乗ることができる。
それからもふもふを留めている縄を解いて。
「痛かったわよね、もふもふ。ずっと繋がれて退屈してたのに、いきなりこんなのに乗っかられて迷惑だったわよね」
「こんなのってなんだよ!?」
キアの抗議が聞こえるけれど、知らない。
「このお庭、いっぱい走らせてあげるから。それで機嫌直して! ね?」
短く鳴いたもふもふの返事からすると、元々怒ってはなさそうだった。良かった。
こんなに可愛いけれど、悪い奴には容赦がない馬だから。怒らせちゃうとホイのこと蹴飛ばすかもしれないから、こうやって喜ばせないといけないの。
「アンリちゃん。キアも。何やってるのよ」
ゾーラがやってきて、呆れ気味に言う。
「大騒ぎしてないで。これを見なさい」
「なによ……あ」
ゾーラの視線の先にはホイがいた。
目の前の出来事がなんなのか理解できず、呆然と立ち尽くしていた。




