閑話:過日の埋火
白茶けた城壁に、夕日が反射して黄金色に輝いている。
遠目に眺めたビューマリス城は、コンウィ城ほど厳しくはなく、さりとて雄大でどっしりとした佇まいでそこに在った。
アムルフの村から南東に、およそ八時間ほど歩いてたどり着いた城と同名の町は、塀で囲われることなく賑やかな夕刻を迎えている。
今日はこの町の片隅にある、酒場の物置に泊めてもらうことになっていた。心付けは二日酔いに効く薬草茶葉だ――炒ったタンポポの根とペパーミント、カモミールのブレンドは肝臓と胃腸の浄化に良く、香りも芳しい。
スノードン山への道中に、このビューマリスへ寄りたいと言い出したのは、隣で食い入るように城を見つめているエディだった。
始めはアングルシー島の南端にあるニウブルフから、ウェールズ本島のサンドゥログ方面へ抜けようかと話していたのだけれど、それでは遠回りになってしまうと言ったわたしに「それならバンガーの北側から迂回してサンダガイへ抜けよう」と彼が言ったのだ。
バンガーでちょっとしたいざこざに巻き込まれたわたしたちは、復路でもう一度あの村を通ることを危惧していた。
村でお世話になったシスターがどうしているかは気になったけれど、よりによって大司教への毒殺未遂の疑いを掛けられた後とあっては、慎重にならざるをえない。
それで彼の指し示した道のりに一も二もなく頷いたのだ。
サンダガイはバンガーの東にある村で、バンガー大聖堂と同じくらい古い歴史を持つ教会があるらしい。らしい、というのは、コンウィからバンガーへの道中で素通りしてきた村なので、内情をよく知らないのだ。
歴史が古い割に知名度のそれほど無い教区や村々というものは、このウェールズに割合多い。探せばきっと、バンガーやサンダガイ以外にも様々在るのだろう。
アムルフからサンダガイへ渡るにはアングルシー島の南東へ南下しなければならず、このビューマリスはちょうどその道中にあった。それで、一晩の宿を求めてこの町に立ち寄ったのだ。
彼はアングルシー島を去る前に、この城をどうしても見たいのだと言った。
『それに、きみも気になるのじゃないかな。決して縁の無い場所ではないのだから』
その誘い文句に心動かされて、こうしてビューマリス城壁近くへと足を運んだのだ。
外郭が一定の高さに保たれた城壁には、これから夜を迎えるために松明が掲げられ始めている。城門に控えるイングランド兵のせいで城に近付くことはできなかったけれど、少し離れた二階建ての酒場の屋上から見てもその存在感は圧倒されるものだった。
百と何十年かの昔、ウェールズ北部を征服したイングランド王・エドワード一世が建てた城だ。……正しくは、建てようとした城、と言うべきだろうけれど。
この城は建造途中で打ち捨てられた、未完の城だった。
エディに聞いた話によると、当時のイングランド王が建造途中でスコットランド遠征に向かったせいで、建造のための資金繰りができなくなったのだとか。城壁と円塔が同じ高さで揃えられているのはそのせいだ。
三方を水の張られた堀で囲われたビューマリス城は、四つの円塔と二つの半円塔を繋いだ四角形の内郭と、十二の円塔と二つの門塔を繋いだ八角形の外郭の二重環状城壁で造られている。
初めは地図に記されたこの外郭を六角形だと思っていたのだけれど、「実は少しだけ角度を変えているらしいから、八角形なんだよ」と教えてくれたのはエディだった。
ウェールズ人はおろか、イングランドの平民でさえ誰も知らない話だろう。
「一度この目で見てみたかったんだ。左右対称の美しく洗練された造形ながら、未完成のままに今も残されているウェールズの城の傑作。その謳い文句に嘘はなかった。あれは想像していた通り、とても美しい城だね。
……きみたちにとっては、不名誉の象徴なのかもしれないけれど」
ずっと口を閉ざしていた彼が、ようやく口を開いた。語りかけられた言葉にはどんな反応を返すべきか迷って、「そうね」と首肯するに留める。それ以上の言葉が見つからなかったのだ。
エドワード一世は、このビューマリス城と同じように、ウェールズの各地へ大小様々な城を建てた。特に同じような環状城壁の城は要所に多く、大抵は城壁で町を囲っている。
それは、彼らイングランド人にとっての見張り塔だった。エドワード一世にとっての征服の証であり、この地をイングランド人が支配するために残した、権力の誇示の跡でもある。
美しいと言われても、年月を経て薄汚れた城壁は、多くのウェールズ人にとって忌まわしき蹂躙と抑圧の爪痕だ。
「知っている? ここにイングランド人の町を作るために、近くにあるシャンヴァースの住民は何マイルも南西に移動させられたの。――もちろん、当時の住民はその殆どがウェールズ人よ。家も田畑も奪われてね。その時に移動先で作られた村がニウブルフ」
「昨日、南に抜ける時に通ろうと相談していた、あの?」
「そう。結局こちらの道を選んだから通らなかったけれど」
「そうか。人に歴史あり、また歴史に人あり……ということなのだね」
こちらを一瞥してまたビューマリス城へ視線を向けた男の目には、心なしか複雑な色が混じっていた。誰かにとっての美しいものは、時に別の誰かにとっての苦痛の象徴なのだ。それを、彼はこの旅で咀嚼しながらまた実感している最中なのだろう。
「でも、そうね。名前の響きだけは綺麗かもしれないわ。どういう意味かは知らないけれど」
ウェールズ語でも、ビューマリス城の名前は似た音で発音される。
カステス・ビウマレス。ビウマレスの城という意味だけれど、その「ビウマレス」が何を指す言葉なのか、わたしは知らなかった。それに該当するウェールズ語がないのだ。
「あぁ、元はフランス語から名付けられた城だからね」
「え? イングランド人が建てたのに、城の名前はフランス語が元になっているの?」
きっと、この時わたしはひどく不可解な顔をしていただろう。イングランド人がウェールズの地に建てた城というだけでも釈然としないのに、この上、付けられた名前は彼らの言葉ですらないというのだから。
「そう。フランス語で「美しい湿地」を表す言葉だよ。町ができる前、ここは湿地だったのかもしれないね」
「だったらfair marshとでも名付ければ良かったのに」
「うん、……そうだね」
イングランド人には母国語に対する誇りがないのかしら。口にしなかったわたしの本音が透けて見えたのか、彼は苦笑した。
次いで聞かされたのは、まさしくわたしの考えを肯定するような信じられない話だった。
「イングランドの王侯貴族の間には、何というか、英語は庶民の言葉だという風潮があったようでね。話し言葉も正式な書類も、フランス語こそが高貴な言語だと信じ込んでいたらしい」
「……呆れた。イングランドのお偉方は、自分の国の文化を何だと思っているのかしら」
「今は、兄上……陛下がそれを正そうとしていらっしゃるけれどね。あの方が即位されてから断行されたことのひとつに、公私に渡って使われる言語を英語に統一する動きが本格化したんだよ」
そうなの? とわたしが意外に思って尋ね返すと、彼は「フランスの一部地域を掌握したことで、イングランド人としての線引を明確にするためなのかもしれないけれど」と苦笑した。
国政なんてものは、平民のわたしには想像もつかないものだけれど、それでも当代のイングランド王はそれなりに思慮分別のある人物らしい。自国の文化を誇りとして扱う姿勢には、共感できるものもあった。
「イングランドも侵略と征服を受けては繰り返した歴史があるからね。血の系譜によって考え方は様々変わっていくものだよ。とは言え、私も少し思ったことだから、グウェンにウェールズのことわざを聞いたときは、実はドキリとした」
「ことわざ……、あぁ。“言葉のない国は心のない国”ね」
「そう、それ。まるでイングランドについて言われているのかと思ったよ」
思い出されるのは、彼と出会って何日も経たない、雨の日のことだ。“ヒラエス”について語った折に、言葉の重要性を説いたわたしが聞かせたささやかな話を、彼は律儀に覚えていたらしい。
もう忘れられているかと思っていたのに。
「それは全くの無関係よ。今初めて知った話を、あの時のわたしが指摘できるわけないでしょう」
「それはそうか」
上品に笑ったエディに、わたしはふと、この時になって思い出した疑問を口にした。
「関係、と言えば、あなた、ゆうべ不思議なことを言っていたわよね。ビューマリスがわたしと縁がないわけではない、とかなんとか」
「ああ。うん、言ったね」
「あれはどういうこと?」
彼があまりに感慨深く城を見つめるのでしばらく忘れていたけれど、わたしはまだ、彼が告げたその言葉の真意を聞かされていない。
記憶の限り、わたしはコンウィの領地から出たことがないのだ。この地続きでさえないアングルシー島に縁があるとは思えないのだけれど。
わたしが尋ねると、エディは目を細めてビューマリス城を指差した。
「あのビューマリス城は、かつていっとき、ウェールズの反乱軍に掌握されていたことがある」
「それって」
「うん。きみの父君も、ここに立ち寄ったかもしれない、ということだよ」
喉の奥でつかえた息を、ごくりと飲み下す。彼を見上げて、またビューマリス城を見つめて、それから町を見回した。
せいぜい同じ高さの建物がひしめく町は、ここからではとてもその全貌を把握できない。けれどたった今まで遠く余所事に感じていたあの城が、途端に自分と繋がりのあるもののように感じられるのだから、我ながら現金なものだと思う。
父、と呼ばれるその人が。
オワイン・グリンドゥールが、ほんの十数年前に落とした未完成の城。
革命を成し得なかった彼の、いっとき掌握した城を、顔も知らない娘のわたしが眺めているなんて妙な気分だ。
「そう。……ここにも、あの人の足跡が埋もれているのね」
自ら父と呼ぶには、その人はわたしにとって遠すぎた。けれど、母が死ぬまで想い続けたその人を、わたしは完全に他人と割り切ることもできないのだ。
いつもどこかで、繋がりを探している。血縁という名の他人。そんな意識が、今も握り締めた服の下に息づいていた。
わたしの複雑な心中を慮ったのだろうか。エディは名残を惜しむように二、三瞬くと、肘を預けていた欄干から身を起こした。
「じきに日も落ちそうだ。そろそろ今日の仮宿に戻ろうか」
ええ、と答えるつもりだったのに、わたしはつい、離れていく彼の袖を掴んでしまった。驚いたふうに彼がわたしを見下ろす。
茶色い双眸が、夕日を受けて琥珀のようにとろりと輝いていた。
蜂蜜のような飴色。思わず一瞬見とれた後で、慌てて返す言葉を探した。
「待って。……もう少し」
「うん?」
「もう少しだけ、あの城を目に焼き付けさせて」
彼から引き剥がした視線を、夕日に照らされたビューマリス城へ向ける。黄金から茜色へ、赤みの増した城壁は、燃える炎のように鮮烈な色でわたしの視線を受け止めた。
幾度もウェールズの戦火を見下ろしてきた彼の城は、炎に巻かれたことがあるのだろうか。そのときあの城は、今ほど輝いていただろうか。
(あなたはそれを知っているの? ――オワイン・グリンドゥール)
ただひたむきに城を見つめるわたしに、エディが吐息を漏らすような声で笑った。
「もう少しだけだよ。日が完全に落ちてしまったら、いくら町中でも物騒だから」
「ええ」
離すタイミングを失った、彼の袖を握る手に力を込める。彼は振り払いもせずに、また隣へ並んだ。
肩が微かに触れる距離。そこに違和感を感じる暇もなく、わたしたちは日が地平線に隠れはじめるまで未完成の城を眺めていた。
DIWEDD
アングルシー島と言ったらこれを忘れてはならないと思って。
本編でホリーヘッドとアムルフしかうろつかせられなかったので、閑話で消化しておきました。
1295年から築城が開始されたものの、スコットランドからの侵攻を危惧して防備を始めたり、逆にスコットランド侵攻に遠征したり(当時はまだスコットランドはイングランドと併合していない別の国でした)で元々苦しかった資金繰りが停滞し、1330年に完全に建造を中止したそう。
その後イングランドの管理下にあったものの、1403年にオワイン・グリンドゥールの反乱軍がビューマリス城を攻略しましたが、翌々年の1405年にはイングランド軍が奪還したそうです。
因みに三方を水堀に囲まれていると書いていますが、現在は一部(門塔を挟んで南東の海側)は埋め立てられています。
……などなど枠外コラムの如く書き連ねてしまいましたが、これにて『ヒラエスの魔女の唄』3作目、『リンディーロンの子守唄』閑話まで完結となります。
次回、4作目は(3作目が静かに物騒だったので)穏やかにほっこりできる作品になったらいいなぁと思います。
グウェンの親の話にも触れつつ、エディがちょっと成長できればなぁという方向性でお話を練り練り中。
次回は文字数ももう少し抑えようね、自分(3作目だけで驚異の10万字越え)
一章完結型と言いつつ、物語を動かすために新キャラクターの登場で閑話1にちょっと不穏なものも交えつつ、これからもグウェンとエディの旅路を見届けて頂けましたら幸いです。
それでは、ここまで読了ありがとうございました。




