第5話 生きるべき人間も、死ぬべき人間もいない
夜の森は気が安らぐ。
雑草、樹木、湿った空気、虫の鳴き声、鳥の鳴き声、獣の声、そよ風、葉の揺らめき、そして天に輝く星々。立ち止まり、目で星座を作る。そう、こうして時間を潰していた。
戦争は常に戦っているわけじゃない。ときにはこうして暇な時間がある。敵地へ移動する行軍は退屈で、敵地に着いたとて膠着状態になれば森の中で引きこもるしかない。
上を見ていたのは俺だけだった。照明弾が上がればみな空を見上げる。多くの兵士は煙草と酒で暇を潰していた。星は渦巻く不安や恐怖を鎮めてはくれやしないから。でも夜の煙草はあまりよろしくはない。先端の火は、真夜中だと遠距離からでも視認できる。狙撃の的だ。
自然は無関心なのがいい。
彼らは俺に生きろと言わない。
木の上で息を潜めて待機する。一時間は経過した。
なぜ獲物を待っている。肉なら店で買えるじゃないか。
わかっていた。魔女の言葉から逃げたかっただけだ。普通の人間なら不老不死は喜ばしいことだろう。権力者にとってはどんな宝石よりも輝いて見えるはずだ。金や権力をどれだけ集めても、老いと死には何人たりとも逆らえない。
死ねないという現実が、最も酷だ。いや、本当は信じてなどいない。だが嘘か誠かはいつでも試せる。この銃口を口の中に突っ込んで撃てばいい。だが母さんが止めるだろう。母さんの声はそういうときに必ず聞こえる。
枝の折れる音。落ち葉を踏む音。
極めて静かに、銃身を上げる。
引き金の曲線を指の腹でなぞる。
生命活動が銃に伝わらないように、
ゆっくり、
優しく、
羊の乳を絞るように、
ある力の境界を超えて、
激発。
闇に閃光が走った。
慌ただしい足音が離れていく。
木から降りる。
月明かりが血に濡れた落ち葉を照らした。夜空に二つの月が輝いている。双子月の夜だ。普段より明るい。
獲物の後を追った。歩いて一分もたたないうちに横たわる鹿を発見。鹿は大きく手足を動かした。狩人、捕食者への最後の抵抗だ。
なぜ生きなければならない。
鹿も世の不条理を嘆くのだろうか。それはないか。彼らは言葉を持たない。
「……生きるべき人間も、死ぬべき人間もいない」
世界は無意味で、無価値で、虚無的であると思うことで怪物の兵士であり続けられた。これは正しい考えだ。正しいと思わなければならない。そうでないと俺は生きることができない。
『クランツァ、撃ちなさい』
ナイフで鹿の息の根を止め、腹を裂く。臓器を傷つけないよう丁寧に取り出した。
手足を銃口と銃床に縛り付け、背中に背負う。川は近くにない。まずは山を下りよう。
闇の中に一点の灯りが浮かんだ。
「クランツァさん、ですよね?」
魔女だ。手にランプを持っている。
「よく居場所がわかったな」
「魔術は万能ですので」
「寝ないのか」
「心配になって……本当に仕留めたんですか。すごい」
魔女はランプを鹿の顔に近づけた。
ある疑問が生じた。
永遠の呪いは継承されてきたと彼女は言った。なら魔女も継承された身だ。継承の条件は「対象者が瀕死であること」と言っていたから、彼女も死にかけた経験があるということだ。
魔女は誰から継承したのだろう。そもそも不死者であった期間は。外見的に年齢は近いはずだが、実際は何十年も時間が過ぎた老婆ということだって。
「数日は鹿肉のごちそうってわけですか!」
ランプで橙色に光る彼女の目とみなぎった声はとても活き活きとしていた。
とても純粋で、情熱的で、人の安否が心配になる心優しい魔女。彼女の死にかけた姿なんて想像できなかった。
少女。
死体。
炎。
目を閉じる。
暗闇にはならない。目蓋の裏で、あの炎の山が燃えている。
「名前を、もう一度教えてくれないか」
「メアです。本名はメア・リスラン・ツカクインテです。長いでしょ」
「あんたの要望に応える。命を救ってくれた礼に、あんたの旅に付き合う」
「おやおや? つまり正式に契約ってことですよね⁉︎」
「他にやることもない」
「やった! 衣食住確保だ!」彼女はランプを掲げた。「野宿から解放だ!」
「旅の話はどうなった」
「遠出は当然しますよ。でも帰る家くらいはほしいじゃないですか。外で寝るの嫌なんです。虫がすっごくわずらわしい。文明を感じられる生活がしたいです」
「家を借りればいい。知り合いに聞いてやる」
「家賃払いたくないなぁ」
「払うものだ」
「払いたくないなぁ。めんどくさいなぁ」
なんだ、この女は。
「クランツァさん。今日は都を案内してください。色々とごたついて都を出歩けてないんですよ。ずっと都暮らしに憧れてたんですよー」
「俺は森の方が好きだな」
「クランツァさんの意見は知りません。ド田舎の不便さを知らないからそう言えるんです。私は『魔女の谷』出身ですからね。超ド田舎。深い森のさらに深いところですから、都とは無縁で超退屈です」
魔女は暗闇の負けぬ明るい声音で話していたが、気づかぬほどに薄っすらと暗い影が顔に落ちているのを感じた。
永遠の命を一度でも選んだ者が、闇を抱えていないわけがないのだ。




