第35話 戦争の住人
厨房の裏口から外へ出る。喧騒がドアによって遮断され、心地よい鈴虫の鳴き声が聞こえるようになる。河川敷の奥から水のなめらかな音も耳に届いた。
「料理はどうかな」ブーチョが言った。
「相変わらず美味い。メアも喜んでる」
「よかったよかった」ブーチョは煙草を咥えた。「吸うかい?」
「俺は吸わない」
「やめた?」
「いや、吸ったことがない」
「吸わない兵士なんて変な目で見られたろう」
「少数派だった」
煙草の代わりに虚無主義がある。煙草を吸う必要がない。
「私は吸いまくってた。でも吸いすぎて、あんまり泳げなくなってしまったよ。エラ呼吸がうまくいかなくてね。泳ぐと息苦しくてダメだ」
ブーチョは苦笑し、紫煙を闇に吐いた。
「思い出して気になったんだ」話を切り出す。「ユボ・エト。あいつがいまどうしてるか。脱獄するときに礼は言ったが、返せてはいない」
「ああ、ユボくん。私は直接会ったことはないんだ。どうだった? 皇帝らしい風貌だった?」
「痩せ細って、部分的に禿げてる爺さんだった」
「はは。ずっと地下にいたら仕方ないね」
ブーチョは再び大きく吸い、ゆっくりと紫煙を吐いた。
「一年半前までは生存が確認できていたよ。今はわからない。刑務官、皇帝護衛官、専属料理人、庭師、使用人。王城関係者の多くが見直されたそうでね。ラマチェフの息がかかった人員は綺麗に採用されなかった。限りなく潔白に近い人間だけが選ばれたようだよ」
「あんな大事は過去に聞いたことがなかったからな」
「ははっ。他人事みたいに言うじゃないか。でもクランツァくんは悪く思わなくていい。ユボくんは君が持ってる情報をどうしても私たちに提供したかったんだ。生きるために彼自身が決断したことだ」
「王城の構造をあんたらに教えて、その次は?」
「助けに来てくれるって思うだろう?」
助けに来る。いったい誰が。なぜ希望を持てる。あそこは処刑を待つ場でしかない。
「処刑日が遠い確信が、ユボにはあるのか」
「どうやら今の皇帝は性格が歪んでるらしい。ユボくん曰く、皇帝の座は奪われたって話だ。彼を地下牢で老衰させて、最後は惨めに死なせるっていう魂胆じゃないかな」
ユボ生存の可能性が高まった。今は連絡できなくとも、生きているなら何とでもなる。
「意外と義理堅いじゃないか、クランツァくん」
「人並みには」
「人並み、ね。今度は人並みに笑ってみないかい?」
「あんたが笑える話をしてくれたらな」
「オルトがずいぶん前に面白い賭けを始めていたよ。クランツァくんを笑わせたやつが勝ちっていう賭けさ。何人かで賭けてるようだった」
「ここ数年で聞いた話で一番くだらない」
メアと出会った日のオルトとの会話を思い出した。あれは賭けに関係した話だったのか。
「クランツァくんがラマチェフに来て数ヶ月の頃だったから、もう忘れてるんじゃないかな。でもそうだなぁ、クランツァくんが笑っているところ見たことないな」
「楽しいことがあったら笑ってやる」
「笑うって奇妙なことだ。人間しか笑わないからね。爬虫人は人間ほどうまく笑顔を作れないけれどちゃんと笑う。祖先は人間だから。なぜ人が笑うか、考えたことあるかい?」
「ないな」
ブーチョは咳払いし、声を整えた。
「ここは危険じゃない、と仲間に知らせるためだよ。人の笑顔を見ると安心するだろう? 笑顔は安全を伝える。言葉がなかった時代、人はそうやって安全を伝え合ったのさ。その名残りでわれわれは笑うんだ」
「しっくりくる話だ。じゃあ、これはどうだ。あんたも軍人だったからわかるだろ。狂っちまったヤツは場違いに笑い出す。あれはどう説明する」
「ここは危険じゃないと思い込むためさ。自分を安心させたい、安心したい一心で笑う。現実を否定している。でも狂ってるわけじゃない。私は人間として正常に動いてる証拠だと思うよ」
ブーチョは吸い切った煙草の先端を指ですり潰した。
「クランツァくん。君が笑わない、笑えないのは、いまの生活を安全だと思っていないからだよ。まだ君の魂は戦場にある。戦争に住んでいる。戦争の住人ってやつさ」
「戦争の、住人」
「私も戦争の住人だった。負傷して前線から離されても、仲間のためにすぐ戦地に戻った。平和な日常がどうも気味悪かったんだ。戦争こそが確かな現実であって、戦争に身を置くとしっくりきた。私は、戦争に住んでいた」
ブーチョは遠い目をして黙った後、そろそろ戻ろうか、と言った。
「もう話したいことはないかい」
「十分だ。時間を取らせて悪かった」
「いいよ。いつか笑える日が来るといいね、クランツァくん」




