第33話 言葉
「離心症は、現実感がなくなる症状だ。体が勝手に動いて、自分のものと感じなくなる」
「最近もその症状を発症しましたか?」
「スペラルジェ連峰から帰宅するまでの間にあった」
「……やっぱり。いつもより冷たいなって思ったんです。どのくらいの時間ですか?」
「その間の記憶がない。どうやって帰ってきたのか、覚えていない」
「え。それやばいですよ。どう考えても異常です」
「正常ではない自覚はある」
「いやいや! 焦ってくださいよ! 明日病院に行きましょう。一番腕のいい医者と知り合いになりました。そこで診てもらいましょう」
「そう簡単に治るものじゃない。ラマチェフの医者は砲弾症を知らない。精神病の概念もまだ確立されてない。帝国ですらこの概念は最近できた」
俺は銃を置いて両指を絡めた。
「俺が砲弾症にならなかったのは恐怖を感じなかったからだ。これは心身が丈夫だったからじゃない」
自分の頭を指でつつく。
「ある思想によって、俺の脳は構造が変化した。正気を失わない兵士を欲した帝国は実験的に少年兵部隊を編成した。幼年期に教え込んだものは大人になってからも抜けない。宗教が、まさに。幼い頃から身近に信仰があった人間は神を本気で信じて……信じるを通り越して、そいつにとって神は疑いようもなく存在する。俺の頭に神は居座っちゃいないが、かわりに虚無主義が居座ってる」
「虚無、主義……?」
「人間は、動物にはない高度な能力を持っている。感情、共感、想像、知性。そしてそれらを伝達・表現する言葉。なぜ人間はこれらができると思う」
メアは口を閉じて視線を落とした。
「それが、人間の特別な能力だから?」
「俺は、生きるために進化した結果に過ぎないと考えてる。記憶力が高ければ木の実を隠した場所を忘れない。感情や共感は仲間との結束力を強める。想像は生きる術を生み出し、知性は世界の構造の理解を助ける。神秘も偉大も愛もない。ただただ生きるため。その一点のために発達した。だが人間の行動は動物同様にすべて生存本能に基づいている。戦争は、生存本能を最も刺激する事象だ。恐怖、不安、苦痛。どれも物質じゃない。恐怖という物質はないし、痛みに柔らかさはない。存在していない。頭の中にしかない幻だ。幻だからこそ、消すことができる」
「でもどうやって?」
「言葉だ」
「言葉で……できるものなのですか」
「言葉で物を動かしたりはできないが、人間を動かすことができる。言葉には相手の脳に、思考に、強い影響を与える力がある。接続者の日誌を読んで、つくづくそう思った」
メアは口を開かなかった。話を続ける。
「異邦人が自分たちの言葉で話しかけてきたら、人は嬉しく感じるだろう。ラマチェフ人は『帝国人』という言葉を聞くと敵意が自動的に生じるようになっている。言葉は人間の脳内にある非物質的なものに影響を与えられる。少年兵に教え込まれた思想は『すべてに意味がない』だ。実際に訓練した思考法は、言葉から感情や価値を切り離す思考法だった。よくわからないと思うが」
メアはこくんと頷いた。
「戦争と聞いて何を感じる」
「……怖い、たくさん死ぬ、辛い」
「俺はそれを感じられない」
「どういうこと……?」
「『戦争』は『国家同士の闘争』という意味でしかなく、『戦争』と聞いて感じる『恐ろしい』という感覚が、俺の中では生じない。人は意味に感情を付与する。俺の場合、意味を聞いた段階で完全に止まる。人はこう感じるだろうなという推測や想像はできる。そうだな、数字はどうだ」
「数字……」
「一とか五十とか聞いても感情はわかないだろう。俺の場合、それがすべての言葉に適応されている」
「ああ……そう言われると理解できそうです。一という数字から楽しいとか嬉しい気持ちを私は感じません」
「虚無主義を徹底していくと恐怖や痛みを感じなくなる。成長期にこの思想を吹き込むことで他人とは違う作りの脳になる。砲弾症にもならない、恐怖で逃げ出すこともない。理性と野性を合わせ持つ人間から、理性だけの生き物になる。それを『怪物』と呼んだ」
「でも、クランツァさんはそうじゃなかった」
メアは急に強い語気になった。
「だって、本当に生きることに意味がないって思ってるなら、どうして今も生きてるんですか? もうクランツァさんは帝国の兵士ではないんです。生きていて楽しいって思っていいんです」
「俺は虚無主義を捨てられない。メア。自分の髪を見て『赤』ではなく『青』と感じることはできるか。もう自動化されてるんだ。その気になれば色だって俺の目から消せると思う。色だけでなく、味覚すらも。五感は脳が作った幻だ。さすがに不便だからやるつもりはないが」
メアがこちらへ椅子ごと接近してきた。そして手を握られた。
「そこまで自己分析できてるなら元に戻れるでしょ!? クランツァさん。あなたは恐怖を克服したかもしれない。でもね、人間は楽しいって気持ちがないと生きていけないよ。そういう気持ちを感じること、期待することで人間は初めて生きたい、生きようって思えるの。私の手、温かいでしょ。何か感じない?」
「温度の差はわかる」
「女の子に手握られてんだから動揺しなさいよ!」
「そうならないよう、虚無主義が——————」
「そんな考え捨てて! もうあなたは帝国の兵士じゃないし戦争してない! ここは戦場じゃないの! 私がいるでしょ!」
「俺は、戦争と日常の違いがわからない」
「もう恐怖も痛みも感じていいの! 恐怖と痛みは私たちが人間から逸脱しないように私たちを止めてくれてる。だから苦しみを感じることは正常なんです! だからっ—————」
「やめろ」
手を挙げて彼女から逃げる。
「生きることに意味があって、命は大切だと真に感じるようになったら俺は死を選ぶ」
「それは……人を殺した罪悪感からですか」
「俺は、自分の手で家族を殺した」
メアは絶句した。彼女の上がった両肩が下がって、大きく開眼した眼も眠りにつくように薄くなっていく。
「俺に生きてほしいと思うなら、この世に意味はないと信じさせてほしい」




