第28話 誰も覚えていない
日誌の精読は退屈な作業にならなかった。
日誌は接続者として修行を始めた日から記録が始まる。接続の概念を学び、自分を他者として対峙し、余計な思考を削ぎ落としていく。精神を完全掌握することに長い年月をかけ、接続に至る。
最初の接続に成功するまで平均八年。
成功した日は文章量が多かった。接続に慣れていくと考察が増えていく。
この世界はなぜ在るのか。
どこまでが世界なのか。
いつ世界は始まり、いつまで続くのか。
そして日誌はある日途切れる。人生の終わりだ。
自分はどんな人間で、どのように生きたか。口頭では目の前の人間にしか伝えられないが、文字は場所を選ばず、時すらも選ばない。風のように流れては消えない。石に残せば千年の時を超えられる。
文字を読む、書物を読む。
気にも留めなかった行為が、彼ら接続者の一生涯を読むことで崇高さを多少なり感じるようになった。
俺の知っている生き方は兵士だけだった。
物心つく頃には兵士になって、周りも兵士だらけだった。兵士の人生は単縦だ。銃を握り、訓練をし、煙草を吸い、酒を飲み、戦争へ行く。身体が壊れるか、死ぬかまで戦い続け、そして運良く生き残って年を取ったら制服を着る日々が始まる。それが兵士の人生。自分もそうなるのだろうと思っていた。実際、新設の司令部に異動する話も出ていた。だが、今はこうしてラマチェフの地方で書物を読んでいる。何が起こるかわからないものだ、人生は。
日誌を読み始めてから二日後。
気分転換に外へ出た。面の平たい岩を見つけて座った。山下を眺める。メアはずっと読み続けている。接続者は干渉してこなかった。
不死者の記述が見つからなかったらどうするのだろう。他に起源を辿れる方法はあるのだろうか。メアの能天気な振る舞いを見ていると行き当たりばったりに見えてしまうが、彼女には知的な側面がある。知識量も洞察力も尋常でない。だから俺が考えても無駄だ。俺の仕事は彼女を守ること。それだけだ。
鳥が近くで止まった。フクロウだ。一度こちらを睨むと熱心に毛繕いを始めた。それが満足すると、また丸い目でじっと見つめてきた。
「フクロウ、ですか」
背後から接続者が近づいてきた。二日前の初日に会った接続者だ。
「食うものはないだろうに」俺は言った。フクロウに視線を戻す。
「ここからの眺めが好きなのかもしれません」
そうかもしれない。フクロウも視線を地上へ向けた。
「クランツァ様。ご休憩のところ申し訳ありません。お尋ねしたいことがあります」
「特に隠すこともない」
「ありがとうございます。永遠に生きる、とは、どのような感覚なのでしょうか」
「悪いが、俺は不死者の自覚がない。不死者になってまだ日が浅い。大きな怪我もしていないし、体調の変化も感じてない」
「そうでしたか。てっきり何十年とお年を取られていないと考えておりました」
「俺も聞きたいことがある」
「ええ、どうぞ」
「なぜ接続者になろうと思った」
接続者は立ったまま、遥か地平線へ視線を移した。
「私には妻と息子がおりました。しかし疫病で二人を失いました」
「そうか。話さなくてもいいが」
「いえ」
しばし間をおいてから接続者は口を開いた。
「私は、無関心な世界に腹が立ちました。もちろん身勝手な憎しみです。もともと世界は無関心に包まれているし、動物たちの世界では死に溢れている。私は世のすべてを呪うようになり、憎悪を溜め込むようになりました。自暴自棄になりかけていたとき、接続者に出会いました。彼はこう言いました。『人間は、世界と自己の存在を疑える、唯一の存在である。存在の追及こそが人間の使命だ』。ああ、確かに、と思ったのです。あのフクロウも、この岩も、木々も、なぜ自分がここにいるのだろうとは考えていないだろうし、考えることもできない。人間だけが疑える。そして、真理追求の果てに妻と息子に会えるかもしれない、と軽率にそう思ったのです。それが動機だったのですが……実際は、何かに没頭できればよかったのかもしれません」
「会うことはできたのか」
「いえ、まだまだです。しかし絶望も憎悪も消えました。世界に対する考え方が変わったのです。世界の広大さに涙できた。われわれの住む星はとても小さい。宇宙は無に満ちていて、気が遠くなるほど広がっている。私は生涯をかけて世界を旅し、これからも存在の真理を追求したい。そして、死後でもいいから妻と息子に会って伝えたい。人生はある一つの過程です。私はそう考えて日々を生きております」
後半、接続者の声音は熱を帯びていた。それに感化されたのか、自分ことを話そうと思った。
「俺は、自分がなぜ生きているのかわからない」
「それが虚無主義というものでしょうか」
「ああ」
「クランツァ様は、あの炎を覚えていらっしゃいますか。あのお二人も」
炎。
炎の山。
瞼を閉じると見える炎。
心臓が収縮する。
腹を、少し折った。
「もうよく覚えてない。八歳の頃の記憶だ」
「クランツァ様は、ご自身のことをメア様にお伝えしているのですか」
「俺の、何を」
「クランツァ様の過去、離心症、虚無主義についてでございます」
「……いや、話していない。必要がないと判断してる。訊かれたら答えるつもりではいる」
フクロウがまたこちらを見ている。暇な鳥だ。
「立ち入ったことを訊いてしまい申し訳ありません」
「いいんだ。自分が扱いづらい人間だという自覚はある。気にしてない」
立ち上がるとフクロウも飛んでいった。
「戻る」俺は言った。
歩きながら接続者の言葉を思い返す。
炎のことは覚えている。俺が作った死体の山が燃えている光景。けれど、二人、がわからない。誰の話だ。接続者の妻子のことかと思ったが、会話の流れからして違う。彼は誰について言っている。母さんと父さんか。父さんは、正直忘れかけている。いつも、どこかに行っていたから。
思い出せない。
俺が忘れたら、きっと世界に存在しなかったことになるんだろうな。




