第25話 写真
現実が、いま戻った。
塹壕で、泥を被った兵士が震えている。
たったいま、そばにいた別の敵兵を撃った。そいつは正気を失っていた。塹壕に溜まった雨水はバケツか鉄帽子ですくって地上へ捨てるのだが、それを戦闘下のいまやっていた。銃を持たずに、こちらの存在に気づきもせず、必死で。
照準を敵兵に合わせる。ぶるぶる震えて歯を鳴らしている。味方が撃たれても俺を見上げようともしない。砲弾症だ。
敵兵が顔を上げた。顔中に皺が寄って恐怖に歪んでいく。
敵兵は歯を食いしばり、嗚咽に耐えながら片手を上げた。指に何か挟んでいる。
きっと家族の手紙か、写真だろう。
なぜ戦争へ来る。祖国防衛という大義名分は聞き飽きた。「祖国」と聞いたとき、人は偉大さや荘厳さを感じるのだろう。なぜ気づかない。それは言葉と本能が生んだ幻想だ。お前も、お前以外の人間も、全人類が言葉に惑わされている。この世界で正常なのは俺だけか?
照準を合わせる。
引き金に腹を食い込ませる。
だが、撃てなかった。
強烈な無力感。
肩が脱力する。
銃が下がる。
行動のすべてに、意味を感じない。
必死に戦線を走って、殺して、帝国のために戦っている。
俺の家族を、俺の村を奪った帝国のために戦っている。
いったい何のために。
いったい何のために、必死に生きている。
どうしてこいつを殺さなきゃならない。どうして生きなきゃならない。
『クランツァ。撃ちなさい』
わかってる。母さんは、怪物になった俺を人間に戻したいんだろう。でも人間に戻ったら、母さんや村のみんなを殺した罪に耐えらない。それくらいわかるだろ。エルフォス虚無主義が俺を生かしてるんだ。だからやめてくれ。あの炎を消させてくれ。
銃が地に落ち、膝も地に落ちた。
「疲れた。あんたを見逃してやる」
数秒後、敵兵は血相を変えて塹壕から上がり始めた。生きたいと願う手足の躍動に、強い生命力を感じる。家族と再会するために。それも所詮、子孫を残すという本能に従わされているにすぎない。生命の美しさや尊さなんてものはすべて幻だ。理性で懇切丁寧に脚色し、自己陶酔しているだけなんだ。
けれど今なら感動できるかもしれない。小さな熱を、俺は胸に感じていた。
地上へ上がった敵兵はそばを通り過ぎ、大地を大きく蹴った。そうだ、走れ。どこまでも走っていけ。
正面に顔を戻し、視線を落とす。紙片が落ちている。男が手に持っていたものだろう。拾い上げる。指の腹で泥を落とす。
幼い少女、若い女性、若い男。三人の写真だった。
銃声。
首を回す。
敵兵が倒れた。
帝国兵の二人。
俺は、銃を握った。
構える。
引き金。
撃った。
もう一人。
撃った。
硝煙が風で流れる。
静かに呼吸する。
脳が冷めるのを感じる。ああ、虚無主義が戻ったんだ。いつもの感覚だ。撃った理由も感情も、たったいま忘れ去った。だってそんなものは考えても意味がない。
「生きるべき人間も、死ぬべき人間もいない」
帝国兵が近づいてくる。
複数の銃口が、俺を睨んでいる。
これでいい。
この世に意味はない。
もう、生きるのは終わりにしよう。




