第24話 塹壕
「……生きることに意味はない」
呪文のように囁いた。
俺を恐怖させる生存本能を、エルフォス虚無主義が首を絞めて黙らせてくれる。どんな逆境や地獄にいても体の震えがぴたりと止まる。世界と自分が切り離される。あらゆる事象が自分とは関係がない。とても解放的で、湖の中心で浮かんでいるように自由なのだ。
分隊は全滅だろう。敵は前線を放棄し、味方ごと砲弾で潰そうと考えている。敵味方すべてを更地にしてしまえば、ここは緩衝地帯となる。
竜は帰らせた。徒歩以外の移動手段はない。
まず帝国の歩兵隊と合流しよう。地上へ上がるしかない。弾丸や魔術が飛び交う地上へ。塹壕に残ったところで砲弾か、敵の援軍で死ぬ。
帝国軍が上がってきていなかったら詰みだ。今度こそ、生き残れそうにない。
『クランツァ。撃ちなさい』
弾倉を抜く。
薬室を開く。
指で泥をほじくる。
汚れた水をすくって流し込む。
ボルトを何度も引く。
砂の擦れる音が減る。
弾倉を込めて一発撃った。
撃針も生きてる。問題ない。
塹壕を歩く。雨水で水溜まりがいくつもある。牛乳入りの紅茶のような薄茶色。血が混じって赤い線と輪ができている。
泥、死体、銃、砲撃音、悪臭。
世界が破壊と憎悪に満ちていることが平常であり平時であり、日常だった。
整備された路面。
小綺麗な服の市民。
光り輝く硬貨。
陽気で朗らかな音楽。
砂糖菓子の甘い香り。
帝都にいると強い違和感を覚える。大きな物音がしても市民は驚きもせず首を回すだけ。その姿が、俺はこの世界の住人じゃない、と気付かせる。
ここは違う。
ここは違うんだ。
ここで俺は住めない。
ここは俺の日常じゃない。
そうして離心症を発症する。目の前の現実から心が離れて、何も感じなくなる。
戦場こそが日常だが、もちろん生活するには最悪の環境だ。だが、この生活を楽しむ者も変態もいる。
ネズミだ。
ネズミは誰よりも戦場を楽しんでる。彼らは兵士の死体を一生懸命に齧って腹いっぱいになるまで食べる。口から入って人体洞窟探検するネズミだっている。そして気に入ると住み着くのだ。お菓子の家を見つけた気分だろう。それは勝手にやってくれていいのだが、保管してあるパンや豆を盗むのはやめてほしい。就寝中に噛み付くのもナシだ。死体だけ食っててくれ。あとは文句はない。
小銃を構えながら進む。
敵が見当たらない。
突き当たり。左右の分かれ道。
左右に敵なし。どちらも突き当たりで塹壕は途切れる。
帝国軍は西。左を選んだ。
突き当たりに足場。死体がある。頭ひとつ出して監視する足場だ。
地上で砲弾が着弾。土が頭上から降った。
「うっ、ううっ!」男のうめき。
足を掴まれた。
生きてた。
円匙で腿を突かれる。
体勢が崩れ、片膝をつく。
しがみつかれる。
押し倒された。
取っ組み合い。
耳を掴む。
敵が歯を食いしばる。歯の隙間に血が走っている。
身を起こし、のしかかる。
片手で頭部を泥に沈める。
殴る、殴る、殴る。
敵が踵で俺の背を蹴る。
殴る、殴る。
敵の頭が泥に沈んでゆく。
自分の白い息が敵にかかる。
敵の息が泥を泡立てる。
手元に弾倉が落ちている。
拾い、殴った。
頭蓋を割るつもりで、角で、何度も。
敵兵の動きが止まった。
弾倉を見る。皮膚と肉が少し詰まってる。敵のだ。捨てた。
小銃を拾う。
塹壕から顔を出す。息を整える。白い息が細くなっていく。
足元でネズミが歩いていた。
「お前も一緒に来るか」
小銃を地上に置き、地上へ這い上がる。どこもかしこも真っ黒だ。黒く焼けた樹木が立ち並び、緑はない。地獄が遠くまで続いてる。いや、地獄なんてものもない。地獄って言葉も人が作った幻なのだから、虚無に還せる対象だ。人の声が聞こえる。銃声、砲撃音、弾着音も続いている。
耳鳴り。
始まった。
色が、現実感が消えていく。
離心症だ。
だが悪くはない。
極めて冷静になれる。
誰かに身体を預けてる感覚。
どこか誰もいない場所へ、連れていってくれ。




