第10話 怪物
命の危機が迫ったとき、人は家族を、あるいは残してきた愛する者を脳裏に描く。
家族に危機が及ぶかもしれない。
残した家族が路頭に迷うかもしれない。
ここに来なければよかった。
家族に会いたい。
たった一言「家族」と言うだけで、不安の渦に自ら身を投じてくれる。
国家への忠誠、という理性。
家族に会いたい、という野性。
人間は理性と野性の対立の中で生きている。そして多くの人間が野性に従い、理性は敗れる。理性がひとり立ちするのを阻止するため、野性が痛みや恐怖で足を止めさせるからだ。
動物は、野性の塊だ。
人間は、野性と理性、二つを持つ。
では理性の塊は。帝国はそれを「怪物」と呼んだ。
野性の呪縛から解き放たれた人間、新しい人間、怪物。怪物は痛みも恐怖も感じず、死も恐れない。野性がないからだ。
俺は怪物になった。だから戦場で壊れなかった。俺の世界に善悪はなく、あらゆる物事が記号でしかない。死は「生命活動の完全停止」という記号・意味であって他に感じるものはない。
あの監視官の自爆を見て思った。
彼も、死の直前に怪物の片鱗を見たのだろうか。死を無意味化、記号化できたのだろうか。
衛兵に後始末をさせ、オルトと街を歩く。
「クランツァ。あの魔女はこれからも狙われる」
「だろうな」俺は正面を見ながら答える。
「魔女は貴重な存在だ。帝国を圧倒する力を持ってる。あの魔女は魔術をラマチェフに広めてくれるかもしれん。魔術を使える血筋ってやつを見つけて、ブーチョみてえに青空教室開いてよ。ブーチョに身辺警護を頼んでみるか?」
「すでに彼女からそれを依頼された」
「なんて答えた」
「他にやることもない」
オルトは立ち止まった。彼は頬の肉を上げて歯を覗かせた。
「命をかけて守ったかいがあったじゃねえか! 良い娘を捕まえたもんだ!」
太い指が俺の肩を掴む。
「そういう相手じゃない。あんたのその陽気な性格がときどき羨ましくなる」
「婚約まで決まったらぜってえ俺を呼べよ! 花道の付き添いは俺がやってやる。他に誰もいねえだろ。魔女をお前のところまで届けてやるよ。いい服買っとけ。そこは渋るんじゃねえ」
この中年男はなぜ他人のことでこれほど喜べるのか。
「あんたは自分のことを考えろ。いい相手は見つからないのか」
「俺は肉を売ることで精一杯だ。刑務官ってのも出会いがねえからよ。帝国じゃあ毎日目つき悪い野郎どもと酒ばっか飲んでた。そうかそうか、クランツァにも女ができたか」
「あんたを久々に面倒なやつだと感じてる」
彼は聞く耳持たずで酒に酔ったような笑みを作った。
「帝国に未練はないのか。だいぶ長くいたんだろ」落ち着かせるために話題を変える。
「未練なんてねえよ。この腹を見ろ。帝国じゃあ正体がバレるんじゃねえかって不安をいつも抱えてたからよ。ラマチェフに戻ってからは緊張が解けて幸せ太りしちまった」
「そこまで太るのはもはや才能だ」
「お前こそ未練はないのか。俺と違って、お前は帝国出身だろ」
一瞬、言葉が詰まった。
「あるにはある」
「何だ、言ってみろ」
きっと嘘をついても彼には見抜かれる。
「皇帝を殺してない」
「おいおいマジか! ハッ! そりゃとんでもねえ未練だ! お前が牢にぶち込まれたのも納得だ。つってもよ。いくらでもやれる機会はあっただろ。護衛官やってたって話じゃねえか。あれは皇帝に一番近づける職だろ」
そう、いくらでも機会はあった。
エトの皇帝は常に人の頭蓋を模した仮面を被っている。意味は、人をも制す。誰も皇帝の顔を知らない。名前すらも。だが、俺は顔なら知っている。
「実行したら俺はどうなっていた」
「まあ、処刑は確定だな。なんだよ、お前も命は惜しいって思うやつだったのか。ちゃんと人間だったんだな。安心したぜ」
適当に鼻を鳴らして誤魔化した。
俺は、母さんの言葉には逆らえない。
銃を向けられたら手を上げるように、母さんの言葉は無条件に俺を従わせる強制力がある。言葉は死に近づいたときに聞こえる。俺を諦めさせてくれない、母さんの声。撃ちなさいと言って、あらゆる戦場で俺は生き残ってきた。
母さんの声が俺を生かし続けている。
でも母さんは、生き続けた先に何が待っているか話してくれたことはなかった。
なぜ生きなければならない。
みな、その真実を知った上で生きているのだろうか。
オルトは牢で話した内容を掘り返さなかった。気を遣っているのだ。知りたい気持ちを抑えているのだろう。彼とはだいぶ関わっているが、話していないことの方が多い。きっとクランツァ・ハザリーの人物像は未だにぼやけてるに違いない。
適当な人間に見えて、全くぶれない芯を持っている男。それがオルト・ゲラスだ。だから諜報員として十年以上も帝国に潜伏できたのだろう。




