第23話 こっち向いてよ――
身体を念入りに洗ってから湯舟に浸かった。
望月のいないバスタブは、さっきと違って広く感じられる。
足を延ばすことはできるけれど、だからと言って嬉しいとは感じない。
――やってしまった、という後悔の念が胸を締め付ける。
ひとつは望月の家でしてしまったということ。
そしてもうひとつは、望月を拒絶してしまったということだ。
あのときどうすればよかったのか、私にはわからない。
望月がお風呂に入ることを誘ってきたとき、その表情には明らかに不安が混ざっていた。そのあともずっとセックスしたいのかどうか聞いてきて、私に気遣っていることがわかった。
でもはっきり言って、あのときの望月は私のことなんて眼中になかった。
望月が見ていたのは、私ではなく気遣っている自分自身だった。
それがどうしても寂しかった。
私を見てくれないことも、言っていることを理解してくれないのも嫌だった。
そしてその寂しさは、最後まで埋まることはなかった。
私は望月のことが好き――いや、大好きだ。
人生の中で、これほど人を好きになったことはない。
今の私の生活は、望月を中心に回っているといっても過言ではない。
それほど、私にとって望月は欠かすことのできない存在にまでなっていた。
――けれど望月は、私とセックスしたいと思ってくれない。
悲しいけれど、これが現実だ。
望月が私を見る視線には、明らかに熱が欠けていた。
私の胸や下半身を見たって、特に何も感じていなさそうだった。
そんな状態で望月とするのは、私に付き合ってもらうだけになってしまう。
作業みたいなセックスなんて、私は全く望んでいない。
「……もう」
ぱしゃん、と水面を叩く。
小さな波が何重にも生まれて広がっていった。
しばらく揺れていた水面は、しばらくすると元に戻った。
どんな顔で望月に会えばいいんだろう。
謝るのは大前提としても、さっきの話をどこまでしていいのかわからない。
でも完全になかった風にするのは、今後の足枷になることは目に見えている。
最悪、関係が悪くなって別れることも――
「……っ」
唇が千切れるくらい、強く強く噛みしめる。
なんで私はこんなどうしようもない人間なんだ。
望月のことが好きなのに。大切にしたいと思ってるのに。
それなのになんで、望月のことを酷く傷つけてしまうんだ。
本当に嫌気がさす。
――望月を思っての行動は、すべて裏目に出ていた。
*
身体を拭いてドライヤーで髪を乾かす。
何度もヘアカラーをしているせいで、髪が傷んでいるように見える。
大学入試が終わり高校を卒業して、なんとなくライトブラウンにしたら「その髪、めっちゃ可愛い」と望月に褒められてから、ずっとこの髪色にしている。
鏡に映る私は、とても不安そうな表情をしていた。
大丈夫、と口にしかけた。
けれど曖昧な口の形をしたまま、私の唇は動かなくなった。
――大丈夫なわけがない。
望月を傷つけた私に、そんなことを思う資格なんてない。
ドライヤーのスイッチをオフにしてから、望月のいるリビングに向かう。
黙ったまま中に入ると、望月はスマホを触っていた。
こちらに気づいたけれど、すぐに目を逸らされた。
寂しさに耐えながら隣に座ろうと近づくと、あることに気が付いた。
私の座るクッションが、いつもより数センチだけ遠くなっていたのだ。
望月が私から距離を取ろうとしている――。
それを理解した途端、喉を締め上げられるような息苦しさが生まれた。
でも、私も望月に同じことをしてしまった。
だから私が拒否することはできない。
そう思って、クッションを近づけないで腰を下ろした。
たった数センチの距離が、果てしなく遠く感じられる。
手の届く距離にいるはずなのに、ここには望月がいなかった。
望月の顔色を窺っていたけれど、いつまでもスマホから顔を上げようとしない。
だから私は、その状態のまま話を切り出した。
「……ごめん望月。さっきのはそういうつもりじゃなくって、」
「いや、そういうつもりだったから拒否ったんでしょ」
スマホから顔を上げることなく、私の言葉を遮ってきた。
望月の声は鋭くて冷たかった。
怒っていることがすぐわかったけれど、謝る以外なにもできなかった。
「……望月が私のこと考えてくれて、ほんとに嬉しかった。でも、」
「でもじゃないって」
固いトーンで望月は私の言葉を遮る。
「葉山がしてるの、ここからでも聞こえてたんだけど」
望月は、一切遠慮することなく指摘してきた。
恥ずかしさで顔が真っ赤になる。
「……ごめん。気づかなかった」
「好きなら勝手にすればって感じなんだけどさ、そういうのじゃないんでしょ」
「……うん」
「ならあのとき、私の手を払ったりしないでほしかったんだけど」
望月の言葉は冷たかったものの、悲しみの色が強く滲んでいた。
「望月……」
私が名前を呼ぶと、その顔にはバツの悪い表情が浮かんでいた。
すぐに視線を逸らし、隙間を埋めるようにスマホに視線を戻す。
でもホーム画面をスワイプさせるだけで、何も見ようとしていなかった。
望月もきっと、今の状況が嫌なのだろう。
それは私も同じだ。ちゃんと話をして仲直りしたい。
けれど、その気持ちが空回りしそうで怖かった。さっきみたいに望月を傷つけたら、本当に後戻りできない傷を残してしまう。
だから、あと一歩を踏み出す勇気が出なかった。
「今からどうする……?」
気まずい空気を少しでも和らげようと、望月に話を振る。
「映画、見るって言ってたでしょ」
「うん、なにか見たいのとかある……?」
「さっき調べてた。これとか」
望月はそこまで有名ではない映画タイトルを見せてきた。
「じゃあ、それみよっか……」
とてもぎこちない空気のまま、私たちは映画を見始めた。
望月との距離感は、いつもよりほんの少し遠く、それが本当にもどかしかった。
なんとかして埋めたい。
ハグもキスもしたいし、もっと深いことだってしたい。
でもそう思ってるのが私だけだと思うと、どうしようもなく寂しくなる。
なんで望月は私のことを性的に見れないの、なんて我儘な怒りも頭に過った。
もし望月が私とセックスしたいって思ってくれればすべて上手くいくのにって。
でも向こうだって、私と似たようなことを考えているに違いない。
だって望月は、私とそういうことができないって何度も忠告していた。
キスや恋人らしい触れ合いだって、望月の黙認という形で成り立っている。
私がどうこう言うことなんてできないし、望月は何も悪くない。
やっぱり私たちって合わないのかな――そんな言葉さえ頭に浮かんだ。
絶対そんなことはない、と言い切れるほど、今の私は強くなかった。
「映画、終わった」
頭の中でネガティブな考えがぐるぐる回っていると、望月が口を開いた。
事実確認をするような、淡々とした口調だった。
いつの間にか映画はクライマックスを迎えて、スタッフロールが流れている。
何を見たのかまったく思い出せない。
望月のことを考えていたせいで、映画なんて二の次だった。
「明日、講義だからもう寝よ」
「そうだね……」
ぎこちない空気のまま寝る準備をしていると、望月はベッドから立ち上がった。
「私、カーペットで寝るからベッド使って」
「えっ、冷えるからやめなよ……」
「……」
望月は何も言わないで、部屋の電源を消した。
いつもより広いベッドに取り残されてしまった。
――孤独感が胸を締め付ける。
泣きそうになって、涙が目を滲ませた。
でも私が泣くのは違う。悪いのは私だから泣いちゃだめだ。
これは罰だ。私が望月を拒絶したことへの罰。
だから私はその罰を受け入れないといけないし、悲しむ資格なんてない。
そう思って、目の縁に溜まった涙を拭った。
「望月……戻ってきて」
声を震わせないように暗闇に呟く。
しかし、いつまでも反応は帰ってこなかった。
「望月がそこで寝るなら、私もそこで寝る……」
「そういうのやめて」
望月はぴしゃりと言い切った。
「風邪ひかれたら困る」
「じゃあ、ベッドに入ってきてよ……」
「……」
私がそういうと、望月は黙ったままベッドの中に入ってきた。
パジャマとマットレスが擦れる音で、すぐ近くにいる感覚が生まれた。
「……ほんとにごめん、望月」
「怒ってない」
「そうかもだけど、ごめん……」
私の謝罪に、それ以上の返答は帰ってこなかった。
望月は私に背を向けて横になっている。
だから今、どんな顔をしているのかわからない。
こっち向いてよ――そう願っても、望月は最後まで私を見てくれなかった。




