第12話 絶対逃げないって約束して
言葉の輪郭は、近づいてくるサイレンの音でぼやけた。
葉山は高畑さんのことが好きだった――。
頭では理解できるのに、心は受け入れることを拒否している。
それはきっと、葉山のキスの反応が初心で、私が初めてだと思い込んだから。
キスが初めてでも、好きになった人が私以外にいるのは考えられたはずだった。
――また、私は期待してしまった。最後に傷つくのは自分なのに。
「……そっか、うん。ありがと、教えてくれて」
そこで言葉を切り、私は逃げるように葉山から離れた。
後ろで何か言っていたけれど、振り返ることはできない。
今の醜い自分を、葉山にだけは見せたくなかった。
足に力が入らなくって、何度も転びそうになりながらアパートの階段を上る。なんとか自分の階まで来て、震える手で鍵を探した。真っ暗だから鍵を見つけるのに苦労したが、やっと鍵らしい感触が手に当たった。
すぐに鍵を開けて部屋に入ると、電気も付けないでベッドに顔をうずめた。
コイルの擦れる音が、静かな部屋でいやに響く。
涙は出てこなかった。泣きそうな気持ちだけが心をちくちく刺してきた。
バイトのときの葉山が脳裏に過る。
私に向けるときみたいに柔らかな表情で、葉山は高畑さんを見ていた。
たしかにあれは、普通の友だちに見せる顔ではなかった。
そんな顔、私以外の人に見せないでよ――。
恋人だからってなんでも制限はできないし、勝手に期待するべきじゃない。
そんなことは知っている。
でも葉山には私だけであって欲しかった。
笑顔も好意も全部、私が最初であって欲しかった。
「つら……」
その言葉は、部屋の片隅に消えていった。
*
夏休みが終わって、大学が後期に入った。
あのあと葉山から連絡が来ていたけれど、返信することができなかった。
だから未読のまま放置してしまっている。
元をたどれば、バイト先に来るように提案したのは私だ。
だから、なんであの日来たの、なんて責めることはできない。
葉山も高畑さんも悪くない。悪いのは私だけ。
「……望月、体調悪い?」
はっと顔を上げると、水瀬が心配そうに顔を覗き込んでいた。
今は大学の講義中、第一回目はオリエンテーションだった。
葉山は別の講義を取っているからここにいない。
そのため、いつも葉山が座る席に水瀬は腰を下ろしている。
別にいいんだけど、私には少し違和感があった。
「ごめん、ちょっと寝不足かも」
「ふーん、気を付けなね」
ぼんやりしたまま、講師の話に耳を傾けた。
その後は何事もなく講義が終わった。
水瀬と別れて講義室から出ると、入り口に背の低い女の子が立っていた。
そこにいたのは、不安そうに私を見つめる葉山だった。
「ねぇ、望月――」
その声を聴いた瞬間、私は一目散に走り出した。
嫌だ。今は葉山と話したくない。
自分の嫌なところを見られたくない。
講義棟を抜けて外に出る。
まだ10月で日差しが強く、少し走っただけで背中の汗が服に張り付く。
しばらく走ると、腕をぎゅっと締め付けられる感覚が生まれた。
振り返ると葉山はすぐそばまで来て、私の腕をぎりぎりと掴んでいた。
「なんでっ、逃げるのっ」
息を整えながらも、私の腕を決して離そうとしない。
「ちょっと葉山、ここだと見られる」
「なら絶対逃げないって約束して」
それは有無を言わさぬ口調だった。
こんな葉山、見たことない。
ふわふわした葉山じゃないし、初心な葉山でもない。
ここにいるのは、不安や心配、そして怒りの入り混じった葉山だった。
「……わかった。逃げないから離して」
そう言うと、すぐに葉山は腕を離してくれた。
私の腕には葉山が握った後がくっきり残っている。
爪が食い込んでいたせいで、鋭い痛みが消えない。
「今から望月の家に行きたい」
「なんで」
「話したいことある」
葉山の声はとても固かった。
「……なんの話?」
何も言わないで、と願いながら尋ねる。
そのとき、熱気を攫う風が吹き抜けた。
昼と夜の間に区切りをひとつ入れるような風だった。
葉山のライトブラウンの髪がさらさらと靡く。
私と目を合わせながら、彼女はこう続けた。
「私には望月しかいないって話」
覚悟を決めて断言するような、そんな口調だった。




