第45話「希望と翔太」
天神橋のAuroraの事務所。
午前中のオフィスでは、キーボードを叩く音と、時折交わされるスタッフの声が静かに流れていた。
マネジメント部の一角。
隣り合わせのデスクで、希望と翔太の二人がPCに向かっている。
明日は、郊外の古民家での、ひなたのグラビア撮影。
香盤表、スタッフの入り時間、車両、衣装、現地での段取り……。
二人で、それぞれの画面を見ながら最終確認を進めていた。
そのとき。
「……あ」
希望が、小さく声を漏らした。
隣で作業していた翔太が、すぐに顔を上げる。
「どうしました? 希望さん」
「いえ、明日の現地スタッフのお弁当なんですが」
希望は画面を見たまま、わずかに眉を寄せた。
「手配するのを忘れてました……間に合うかしら」
「あ、それでしたら次のシートに」
「え?」
「昨日、まだチェック入ってないなと思って、手配しときました」
翔太がマウスを動かし、シートを切り替える。
そこには、弁当の個数と配送時間、連絡先まで入力されていた。
「あ、そうだったんですね……」
希望は一瞬だけ目を丸くしてから、ほっと息を吐いた。
「ありがとう」
「瀬川くん、流石です」
「いえ、どうも」
翔太はそれだけ言うと、何事もなかったように正面のPCへ視線を戻した。
その横顔を、希望はふと眺める。
二人で仕事をするようになって、二年ほどになる。
最初の頃は、電話の取り方から、挨拶の仕方、現場での立ち回りまで、希望が一つずつ教えていた。
確認事項を何度もメモして。
分からないことがあれば、その都度聞きに来て。
そんな姿を、つい最近まで見ていたような気がする。
けれど、今では自分が見落としたところを、何も言わずに拾っている。
涼しい顔で画面に向かっているその横顔が、なんだか少し頼もしく見えた。
ふと、翔太がこちらを向いた。
「……希望さん、どうしました?」
「……え」
視線が合う。
「……いや、なんでもないです」
一瞬だけ言葉に詰まってから、希望は小さく笑った。
「瀬川くん、頼もしくなりましたね」
翔太は少し驚いたような顔をして、それから照れくさそうに笑う。
「いや、希望さんに比べたらまだ全然ですよ」
「これからも一緒に勉強させてください」
「ありがとう」
希望も微笑み返す。
「私も、頼りにさせてもらいます」
「はい」
短いやり取りを終え、二人は再びそれぞれの画面へ向き直った。
それから一時間ほど。
時計が昼を回った頃、希望が椅子の上で軽く背伸びをした。
「……んー」
肩を回してから、隣を見る。
「そろそろ、お昼いきましょうか」
「あ、はい」
二人は事務所を出て、天神橋筋商店街へ向かった。
昼時の商店街は、人通りが多い。
買い物袋を提げた人や、昼休みらしい会社員の間を縫うように歩いていく。
向かったのは、商店街の入口近くにあるいつもの定食屋。
席につき、それぞれ注文を済ませる。
料理が運ばれてくるまでの間、希望はスマホを手に取って、ひなたのSNSや事務所アカウントの反応を確認していた。
向かいに座る翔太が、メニューを閉じながら何気なく言う。
「希望さん、今日とんかつ定食じゃないんすね」
希望はスマホから顔を上げた。
「ええ。少しダイエットしたほうがいいかと思いまして」
「へー……」
今日の希望が頼んだのは、焼き魚定食だった。
翔太は、向かいに座る希望をちらりと見る。
――別に、今のままでいいけどな。
そう思ってから、特に理由もなく視線を逸らした。
しばらくして。
「あ……そういや、希望さん」
「ん、なんでしょう」
翔太は、一度口を開きかけてから、少しだけ迷った。
「こないだの配信の収録のとき、いたじゃないですか」
「店のオーナーさん」
その言葉に、希望の表情がほんの少しだけ変わった。
「あの人、どういう人なんですか」
「……」
希望はすぐには答えなかった。
テーブルの上に置いたスマホへ一度視線を落とし、それから静かに口を開く。
「……森下さんですか」
「はい」
「あの人は……」
「うちの部の、前の部長です」
「え」
翔太が少し目を丸くする。
予想していなかった答えだった。
「……で、当時はエトワールのマネージャー」
希望は淡々と続ける。
「今は……ひかりさんの夫です」
「なるほど……」
翔太は小さく頷いた。
元上司。
そして、エトワール時代のマネージャー。
それなら、あのときの希望の反応にも説明はつく。
――とは思う。
でも、それだけではないような気がした。
まだ、確信があるわけではない。
「元上司だったんですね。納得です」
「……どうかしましたか?」
希望が少し不思議そうに首を傾げる。
「いや」
翔太は苦笑する。
「あんなに狼狽えてる希望さん、初めてだったんで」
「……私も、人間ですよ」
希望が少しだけ眉をしかめる。
「あ……すんません」
反射的に謝る翔太。
けれど、希望の口元には、ほんの少し笑みが浮かんでいた。
昼食を終え、二人は事務所へ戻った。
エレベーターを降り、並んで廊下を歩く。
午後の予定を確認しながら、希望が手元のスマホに目を落としていた、そのとき。
廊下の向こうから、一人の男性が歩いてくる。
希望の足が、わずかに止まった。
「……森下さん……!?」
声に反応して、男性が顔を上げる。
森下誠司だった。
「あ、のぞみ。お疲れさん」
変わらない落ち着いた声。
希望は一瞬だけ姿勢を正し、慌てたように頭を下げた。
「も、森下さん。お疲れ様です!」
「今日は……どうされたんですか」
「いや、もう会長の目も届かんようになったし……出禁も明けたんでな」
「ちょっと柳田と話したいことあって来たんや。ひかりとみらいのことのお礼もあったしな」
「あ……柳田部長とですか」
希望は小さく頷く。
「なるほど」
「それに……」
「?」
希望がきょとんと顔を上げる。
誠司は、そんな希望を見て言った。
「のぞみにも、これまでの配信の件、お礼しとかなと思ってな」
「……私に?」
「ありがとう」
「おかげさんで、うちの店も繁盛してるわ」
「あ……」
希望は少しだけ戸惑ったあと、首を横に振った。
「いえ、そんなことは」
すぐに仕事の顔へ戻る。
「みらいさんと……ひかりさんのおかげで、こちらも助かっています」
「ひなたも、とても楽しんでいますし」
「そっか」
誠司は穏やかに頷いた。
そのやり取りを、翔太は少し離れたところから黙って見ていた。
すると、誠司がこちらへ視線を向ける。
「あ、先日はありがとうございます。森下です」
翔太はすぐに姿勢を正した。
「マネジメント2部の瀬川翔太です。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
誠司は軽く頭を下げてから、続ける。
「こないだの配信のとき、とても気の回る人だなと思って見てました」
「え……」
思いがけない言葉に、翔太の声が少し上ずった。
「そんな……ありがとうございます!」
誠司は小さく笑って、希望を見る。
「のぞみ、ええ後輩に恵まれてるな」
「……はい」
希望は、ほんの少し間を置いて答えた。
「それじゃ、そろそろ行くわ」
「は……はい。それでは」
希望が頭を下げる。
誠司は軽く手を振ると、そのままエレベーターの方へ歩いていった。
希望は、ゆっくりと顔を上げる。
遠ざかっていく背中を、しばらく見つめていた。
そんな希望の横顔を、
翔太は、何も言わずに横目で見ている。
懐かしさなのか。
それとも、別の何かなのか。
その表情からは、よく分からない。
ただ。
少しだけ遠くを見ているように、翔太には見えた。




