第46話「告白」
翌日、郊外の古民家。
まだ朝の柔らかな光が差し込む室内で、ひなたのグラビア撮影は順調に進んでいた。
年季の入った柱。
磨かれた板張りの床。
大きな窓から入る光を拾うように、スタッフがレフ板の角度を細かく調整している。
少し引いた場所で、翔太は現場全体を見守っていた。
窓際でポーズをとるひなた。
その姿をファインダー越しに追う中村。
「そう、そのまま」
シャッター音が、古い家屋の中に小気味よく響いた。
そして。
翔太の隣には、希望が立っていた。
いつものグレーのパンツスーツ。
黒縁の眼鏡。
タブレットを手に、撮影の様子をじっと見ている。
一見すれば、いつもの希望だった。
けれど。
視線は現場に向いているのに、どこか別の場所を見ているようにも感じる。
スタッフの動きを確認する目も。
ひなたを見る表情も。
ほんの少しだけ、いつもより反応が遅い。
翔太には、なんとなく分かっていた。
——いつもの希望さんじゃない。
昨日。
事務所の廊下で、あの人と会ってからだ。
翔太は隣に立つ希望をちらりと見る。
声をかけようか迷っているうちに、中村がカメラを下ろした。
「はい。いったん休憩しましょう」
張り詰めていた現場の空気が、ふっと緩んだ。
ひなたがスタッフに頭を下げ、その場を離れていく。
翔太は少し迷ってから、希望へ身体を向けた。
「希望さん……大丈夫っすか」
「……え?」
希望が、一拍遅れて顔を上げる。
「どうしました?」
「いや」
翔太は少しだけ眉を下げた。
「ちょっと、いつもの希望さんとは様子違う感じがしたんで」
「……」
希望は一瞬、何かを言いかける。
けれど、すぐに視線を落とした。
「いえ、そんなことは……」
その返事だけで、翔太には十分だった。
やっぱり、何かある。
翔太は、少しだけ表情を緩めた。
「まあ、調子悪い日もありますよね」
「……」
「ちょっと、ひなたと中村さんの様子見てくるんで」
「希望さんは休憩しといてください」
希望がゆっくりと顔を上げる。
「……ありがとう。瀬川くん」
「いえ」
翔太は軽く手を振ると、ひなたと中村のいる方へ歩いていった。
その後ろ姿を、希望は黙って見送った。
そして。
「……はぁ」
小さく息を吐き、軽く天を仰ぐ。
自分でも分かっていた。
今日は、明らかにいつもと違う。
森下さん。
……いや、もりっち。
あの頃から、ずっと心の奥に押し込めていた気持ち。
時間が経てば、いつか消えると思っていた。
仕事をして。
目の前のことに追われて。
ひなたを支えて。
後輩を育てて。
気づけば、思い出すことさえほとんどなくなっていたのに。
昔と変わらない声で。
『あ、のぞみ。お疲れさん』
そう呼ばれただけで、ずっと奥に沈めていたものが、急に浮かび上がってきた。
もう今では、どうにもならない。
そんなことは分かっている。
「……何考えてんねん……私」
希望は目を閉じた。
自分でも呆れるような、小さな声。
しばらくして息を整えると、ゆっくり控え室へ向かった。
それから数時間後。
撮影が終わる頃には、外はすっかり夕方になっていた。
「希望さん、お疲れ様でした!」
着替えを終えたひなたが、明るい声で希望のもとへやってくる。
「……あ、ひなたさん。お疲れ様でした」
希望はすぐにいつもの表情へ戻った。
「今日の撮影、とても良かったです」
「表情も、いいところが出ていました」
「ありがとうございます!」
ひなたは嬉しそうに笑い、一礼する。
「じゃあ、先に車行ってますね」
「はい」
ひなたが駐車場へ向かう。
車の前では、翔太が荷物の確認をしていた。
「翔太さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
翔太が顔を上げる。
「今日の撮影、良かったっすよ」
「ありがとう」
ひなたは少し笑ってから、ふと、後ろを振り返った。
少し離れたところで、希望がスタッフと話をしている。
「……で、ちょっと気になったんだけど」
「なんすか」
ひなたは声を少し落とす。
「希望さん……なんか元気ない感じしない?」
「あ」
翔太は小さく頷いた。
「気づいてましたか」
「うん」
ひなたも、どこか心配そうに希望を見る。
「いつもより、ちょっとぼーっとしてるっていうか」
「そうなんすよね」
翔太も希望の方へ視線を向けた。
「ちょっと、悩み事あるみたいで」
「そっか……」
「今日の帰りでも、聞いときます」
ひなたは一瞬だけ翔太を見る。
それから、こくりと頷いた。
やがて希望が戻ってくる。
助手席のドアを開け、いつものように腰を下ろした。
「お待たせしました。それじゃ、行きましょうか」
「はい」
翔太がエンジンをかける。
車はゆっくりと古民家を離れていった。
日が落ち、暗くなり始めた空。
高速道路をしばらく走り、車はひなたのマンションの前に到着した。
「それじゃ、希望さん、翔太さん。お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
「お疲れっす」
ひなたはドアを閉める直前、翔太を見る。
ほんの一瞬。
目で合図する。
翔太は小さく頷いた。
ドアが閉まり、ひなたがマンションの中へ入っていく。
再び車を走らせてから、しばらくたったころ。
助手席の希望は、窓の外を眺めている。
流れていく街灯の明かりが、横顔を何度も照らしては消えていった。
翔太は前を見たまま、口を開く。
「希望さん」
「はい?」
「ちょっと、晩飯でも食っていきます?」
希望がこちらを見る。
「いい時間ですし」
「……あ」
希望は時計を確認した。
「そうですね」
「場所は?」
「お任せします」
「了解っす」
少し走った府道沿い。
翔太は、駐車場の広いファミリーレストランへ車を入れた。
店内に入り、窓際の席に二人で向かい合って座る。
夕食時を少し過ぎた店内には、家族連れや仕事帰りらしい客がまばらに残っていた。
注文を終えたあと。
しばらく、無言の時間が流れる。
希望はテーブルの上に置かれた水のグラスを眺めている。
翔太が、口を開いた。
「あの……希望さん」
「はい」
「今日、ちょっと変な感じでしたよ」
希望が、はっと顔を上げる。
真正面から、翔太と目が合った。
「……なんか、あったんすか」
「……」
希望は答えず、視線を落とした。
翔太はそれを見て、慌てて付け加える。
「あ、いや……言いにくかったら無理に話さなくてもいいんすけど」
少し間を置いて。
「こんな感じの希望さん、初めて見たんで」
翔太の声が、少しだけ低くなる。
「俺……めっちゃ心配してます」
「……」
希望は、しばらく何も言わなかった。
テーブルの下で、膝の上に置いた手を小さく握る。
翔太は、朝からずっと、自分を気遣ってくれていた。
何も聞かずに休ませてくれた。
今も、無理に聞こうとはしていない。
希望は小さく息を吐いた。
「……わかりました」
翔太が少し目を見開く。
「瀬川くんには……話しておきます」
「……はい」
翔太は姿勢を少し正した。
希望は視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を探す。
「昨日会った……森下さんですが」
「はい」
「……私」
希望は、小さく息を吸った。
「彼のことが……ずっと好きだったんです」
静かな店内の音が、一瞬だけ遠くなったように感じた。
翔太は、何も言わなかった。
思っていた通りだった。
でも。
実際にその言葉を聞くと、胸の奥に、鈍い痛みが走った。
「……そうだったんすか」
ようやく、それだけ答える。
「ええ」
希望は小さく頷いた。
「でも……ずっと言い出せなくて」
グラスに指先を添える。
「そんなうちに、時間がいつの間にか過ぎていって」
少しだけ、自嘲するように笑った。
「……そしたら、ひかりも彼のことが好きなんだって、気づいたんです」
翔太は、黙って希望を見る。
途中で言葉を挟むことはしなかった。
「……正直、悩みました」
希望の視線が、テーブルの上をさまよう。
「自分の心に正直でいるべきなのか」
「それとも……ひかりとの関係を大事にするべきなのか」
声が、少しずつ小さくなる。
「……それで」
一度、唇を結んだ。
「やっぱり……引いた方がいいって思ったんです」
「……」
「すごく……後悔はしましたが」
そこまで言って、希望は一度目を閉じる。
「でも」
「先日の……ステージを見て、思いました」
「これで良かったんだって」
希望の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「ひかりは……ずっと輝いてた」
その声は、嬉しそうでもあり、どこか寂しそうでもあった。
「……」
希望の目に、薄く涙が滲む。
「あの二人を見てたら……やっぱり、これで良かったんだって思った」
「やっぱり……ひかりは、私とは違……」
「そんなことないです」
希望が顔を上げた。
翔太が、まっすぐこちらを見ている。
いつもの少し軽い調子はなかった。
「希望さんは……今も……昔も」
一つずつ、確かめるように。
「ずっと、輝いてます」
希望の頬を、一筋の涙が伝った。
「……瀬川……くん」
「あの、俺……」
翔太は少しだけ目を逸らした。
言うか迷う。
けれど、ここまで来て隠す必要もないと思った。
もう一度、希望を見る。
「希望さんがエトワールだった時の……映像、見たんです」
「……え?」
希望が目を見開いた。
次の瞬間。
頬が、わずかに赤くなる。
「……見たんですか?」
「はい」
「……どこで」
「事務所の資料室で」
「……」
希望は言葉を失い、天を仰いだ。
そんな希望の反応に、翔太は少し慌てる。
「いや、でも……めちゃくちゃ良かったですよ」
「……そういう問題じゃないです」
希望が眼鏡の奥から少しだけ睨む。
「す、すんません」
けれど。
その表情がほんの少しだけいつもの希望に戻ったことに、翔太は内心ほっとした。
「でも」
今度は、少しだけ真剣な声で。
「だから、わかるんです」
「……?」
「希望さんは、人を輝かせるだけじゃなくて……」
翔太は少し言葉を探した。
「やっぱり、自分も輝く側の人なんだって」
希望は黙って翔太を見ている。
「なんていうか、俺……」
「希望さんのこと」
一度、息を吸う。
「素敵な人だって……ずっと、思ってました」
「……」
「もちろん……今もです」
しばらく。
二人の間に、言葉はなかった。
希望は、翔太の顔を見つめている。
やがて。
希望の口元が、ほんの少し緩んだ。
「ありがとう……瀬川くん」
翔太も、小さく笑う。
「なんだか」
希望は頬に残った涙を指先で拭った。
「話したら、すっきりしたわ」
「……良かったっす」
そのとき。
「お待たせいたしました」
店員の声が聞こえた。
料理の乗った皿が、二人の前へ置かれていく。
張り詰めていた空気が、そこで少しだけほどけた。
希望は目元を軽く拭う。
「それじゃ」
いつものように微笑んだ。
「食べましょうか」
「はい」
食事を始める希望を見ながら。
翔太は、少しだけ安心したように笑った。
食事を終え、再び車を走らせる。
夜の街を抜け、天神橋の事務所からほど近い、希望のマンションの前へ。
翔太は車をゆっくりと路肩に寄せた。
「それじゃ、希望さん。また明日」
「はい」
希望はシートベルトを外してから、翔太を見る。
「ありがとう。瀬川くん」
「今日は、いろいろとごめんなさい」
そして、小さく笑う。
「もう元気になったわ」
「よかったっす」
希望がドアへ手を伸ばそうとした、そのとき。
「あの……希望さん」
「はい?」
翔太は少しだけ言いにくそうに視線を泳がせた。
「またなんか……悩みとかあったら」
「……」
「いつでも言ってください」
少し照れたように笑う。
「俺……こう見えて、頼りになると思います」
希望は一瞬きょとんとして。
それから、ふっと笑った。
「ありがとう」
「これからも、よろしくお願いします」
「はい」
車を降りた希望は、ドアを閉める前に軽く手を振った。
「お疲れ様」
「お疲れっす」
ドアが閉まる。
希望がマンションへ入っていくのを見送ってから、翔太はゆっくりと車を走らせた。
希望は部屋に入り、電気をつけて、バッグを置いた。
そのまま、ベッドの端に腰を下ろす。
「……はぁ」
息を吐いた次の瞬間。
そのまま、後ろへ倒れ込んだ。
しばらく、そのまま天井を眺める。
昨日からの出来事が、ひとつずつ頭の中に浮かんできた。
以前と変わらない、もりっちの佇まい。
『あ、のぞみ。お疲れさん』
再会したときの困惑。
ずっと昔にしまったはずだった感情。
今日の撮影現場で、どうしても落ち着かなかった自分。
それから。
『希望さんは……今も……昔も』
『ずっと、輝いてます』
「……翔太……ありがとう」
希望は、ゆっくり目を閉じた。
「……頼りになるやん」
小さく笑う。
しばらくして。
「あ、そうや」
希望は目を開け、身体を起こした。
バッグからスマホを取り出す。
友人からのメッセージを開き、昨日のやり取りまで遡った。
『来週末の公演、それじゃよろしくお願いします』
『よかったら、お友達でも連れてきて』
その下には、自分が返したメッセージ。
『了解、ちょっとわからんけど』
『誰か連れていくかも』
「……」
希望は画面を眺めたまま、少し考える。
誰か。
昨日までは、本当に誰も思い浮かべていなかった。
希望はスマホを胸元へ下ろす。
「……誘ってみよかな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
少しだけ口元を緩めて。
希望はメガネを外した。
結んでいた髪もほどく。
肩へ落ちた髪を軽く手で整えると、そのままシャワールームへ向かった。




