第42話「身体で覚える」
「HONOKAです。よろしく」
OCATのポンテ広場。
夕方の光が、広場の床に薄く伸びていた。
壁際では、何人かの若い子たちが音楽に合わせて身体を動かしている。
そんな中、目の前の女性だけは、ただ立っているだけで少し違って見えた。
金髪のショートカット。
ラフなパーカーに、足のラインが分かる黒のパンツ。
派手な格好ではない。
でも、背筋の伸び方や、足の置き方が、普通の人と違う。
ひなたは一瞬、その立ち姿に見惚れていた。
「よろしくお願いします!」
慌てて、改めて深々と頭を下げる。
HONOKAは少しだけ目を細めて笑った。
「いや、そんなかしこまらんでええよ」
「それじゃ、早速やけど振り見てみよか」
ひかりと同じ、柔らかな大阪弁。
けれど、響きは少し違った。
「はい」
ひなたは少し息を整えて、HONOKAの後をついて広場の壁際へ向かった。
「まずは最初から通しでやってみよか」
HONOKAがスマホを操作する。
小さなスピーカーから、『流星エトワール』のイントロが流れ出した。
ひなたは軽く息を吸い、最初の位置に立つ。
Aパート。
Bパート。
頭の中には、振りが入っている。
次にどちらへ足を出すのか。
腕をどこまで上げるのか。
視線をどのタイミングで前に向けるのか。
分かっている。
けれど、曲に合わせて動き出すと、それが急に遠くなる。
足を気にすると、腕が遅れる。
腕を合わせようとすると、次のステップに入り損ねる。
表情を作ろうとした瞬間、音が一拍先へ行ってしまう。
Bパートの終わり。
ステップが、曲から少しずれた。
「あ……」
ひなたは途中で動きを止めた。
「……すいません……」
「いや、ええよ」
HONOKAは一言だけ言って、少し考えたあと、ひなたの足元を見た。
「……なるほど」
その視線は、顔ではなく、足に向いていた。
失敗したかどうかではなく、どこで詰まったのかを見ている。
ひなたは、思わず背筋を伸ばした。
「振り、覚えてへんわけちゃうな」
「頭には入ってる。問題は、身体がまだ追いついてへんだけ」
「はい……」
「確かに、次にどう動けばいいかは分かってるんですけど……」
ひなたは、少し悔しそうに自分の足元を見た。
「この曲やけど、基本のステップが三つあるねん」
HONOKAは、スマホの音をいったん止め、ひなたの前に立った。
「まずはこれ」
軽くカウントを取りながら、HONOKAが一つ目のステップを見せる。
動きは大きくない。
でも、足の出し方、膝の緩め方、重心の移し方が、ひなたの目にもはっきり分かった。
ただ足を置いているのではなく、次の動きにつながる形で身体が流れている。
「次」
二つ目。
今度は横への移動が入る。
足先だけではなく、腰と肩が少し遅れてついていく。
そのズレが、動きをきれいに見せていた。
「で、最後はこれ」
三つ目。
曲のサビ前につながるステップだった。
ひなたがさっき詰まった場所と、よく似ている。
HONOKAはもう一度、ゆっくり同じ動きを繰り返した。
「この三つが身体に入ったら、足は勝手に動いてくれる」
「今は手足両方、頭で動かそうとしてるから、ついていけてない」
「……はい」
「足が勝手に動くようになったら、腕とか表情に意識回せる」
「まずは、足からやな」
ひなたは小さくうなずいた。
「あと……ひなたちゃん、止まった時の形はきれいやと思う」
「でも、ダンスはそこまでの道も見られるから」
HONOKAが、さらりと言った。
ひなたは、はっとした。
グラビアの現場では、一瞬を作ることが多い。
止まった時の角度。
視線。
肩の入れ方。
指先の見え方。
それは、何度も教わってきた。
でも、ダンスは違う。
止まる前も、止まった後も、全部つながっている。
言葉にされて、ようやく分かった気がした。
自分が、ポーズの瞬間だけを探していたことに。
「じゃ、この三つ。繰り返し練習しよか」
「はい」
ひなたは、一つ目のステップから動いてみせる。
最初は、足がぎこちなかった。
リズムを取ろうとすると、肩に力が入る。
HONOKAはそのたびに、短く指摘した。
「肩、上がってる」
「足だけで行かんと、身体ごと」
「今のはちょっと早い」
「そう。今の感じ」
褒める時も、直す時も、言葉は短い。
けれど、分かりにくくはなかった。
何度も繰り返すうちに、ひなたは少しずつ、考える量が減っていくのを感じた。
最初は頭の中で数えていたものが、少しずつ足のほうへ降りていく。
「そう、そんな感じ」
「あとは、繰り返し練習して、身体に覚えさせるだけや」
HONOKAの声が、夕方の広場に落ちる。
そのまま練習は続いた。
何度も同じステップを踏む。
曲を止める。
もう一度、同じ場所から始める。
気づけば、広場の外は少しずつ暗くなっていた。
窓の向こうに灯りが増え、通り過ぎる人の数も変わっている。
「よっしゃ、今日はこれくらいにしよか」
HONOKAが曲を止めた。
「お腹すいたやろ。ご飯食べていく?」
そう言って、ポンテ広場の横にあるハンバーガーショップを指差す。
ひなたは汗を拭きながら、少しだけ笑った。
「……はい。めっちゃお腹すきました」
「素直でよろしい」
二人は並んで店に入り、窓際の席についた。
ハンバーガーをほおばりながら、HONOKAがふと口を開く。
「ひなたちゃんは、アイドル目指してるん?」
「……え」
ひなたは、少し手を止めた。
すぐには答えられなかった。
「私、今はグラビアやってて……」
「演劇も、レッスンは受けてて、オーディションにも挑戦はしてるんですけど」
言いながら、自分でも少し整理できていないのが分かった。
「でも、最近は、自分が本当は何をやりたいのかなって、考える時もあって」
HONOKAは、うなずきながら聞いている。
「そんな時に、ひかりさんのステージを見る機会があって」
「そしたら、すごくいいな、というか」
「憧れ……っていうんですかね」
ひなたは、言葉を探しながら続けた。
「あんな風に、ステージで輝けたらな……って思ったんです」
自分で言って、少し照れた。
グラビアも、レポーターの仕事も、演劇のレッスンも。
どれも中途半端に聞こえてしまう気がした。
「なんだか、すごくどれも中途半端で……すいません」
ひなたは、少しうつむいた。
HONOKAは、ストローを軽く指で回しながら、少し考える。
「うーん」
「ひなたちゃん、器用そうやし、なんでもできるってええと思うけどな」
「え……」
「私は、ダンスしかできへんけどさ」
さらっと言ったその声に、自嘲はなかった。
ただ、自分の場所を分かっている人の言い方だった。
ひなたは、顔を上げてHONOKAを見る。
「グラビアも、演劇も、アイドルもやけど」
「いろいろやってみてるうちに、一番やりたいもんが見つかるんちゃう」
HONOKAは、少しだけ笑った。
「全部できるんやったら、めっちゃすごいし」
「……そんなふうに、考えてもいいんですかね」
「ええんちゃう?」
「一個に決めなあかん時が来たら、その時決めたらええし」
「今、やれることあるんやったら、やってみたらええと思う」
ひなたの胸の奥が、少し軽くなった。
中途半端。
そんな言葉で片づけていたものを、HONOKAは別の角度から見てくれた。
「ありがとうございます……」
「わたし、頑張ってみます」
「うん」
「まずはステップ三つな」
「はい」
二人は顔を見合わせて、少し笑った。
——翌日。
事務所の廊下を、希望が歩いていた。
書類を片手に、スケジュールを確認しながら歩く。
その時、廊下の奥からかすかに音楽が聞こえてきた。
足が、自然に止まる。
『流星エトワール』。
今は配信スタジオとして使われている、かつてのレッスン場。
そこから流れてきていた。
希望はドアにそっと近づき、少しだけ開けた。
中には、レッスン着姿のひなたがいた。
スマホで曲を流し、少し踊っては止める。
足元を確認し、もう一度同じ場所から始める。
シャツには汗が滲んでいた。
髪も少し乱れている。
それでも、ひなたの目は真剣だった。
希望は一度、ドアから離れた。
廊下の自販機で、水のペットボトルを一本買う。
そして、レッスン場のドアを開けた。
「ひなたさん、お疲れ様です」
ひなたが驚いたように振り返る。
「……あ、希望さん」
「おはようございます」
「朝から、頑張っていますね」
「あ、はい」
「ひかりさんに、先生紹介してもらって……HONOKAさんっていうんですけど」
その名前を聞いた瞬間、希望の表情がほんの少しだけ変わった。
ひなたは気づかず、続ける。
「そしたら、基本のステップを教えてもらったので、練習してました」
「まだ全然なんですけど……」
希望は、少し遠いところを見るような顔をした。
黒髪のショートカット。
レッスン場の床。
自分より少し先で、迷いなくステップを踏んでいた背中。
「あ……その方なら、私も知っています」
希望は静かに言った。
「よかったです」
「いい先生ですので」
「え、そうなんですか」
「はい」
少しの間のあと、希望は思い出したようにペットボトルの水を差し出した。
「あ……練習の時には、ちゃんと水分をとってください」
「身体を壊したら、元も子もありませんので」
ひなたは目を瞬かせ、それから両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
ひなたは、ペットボトルを胸の前で持ったまま、深く頭を下げた。
希望は、少しだけ表情を和らげる。
「では、私もステージを楽しみにしていますね」
「……はい!希望さん」
その返事は、思ったよりずっと明るかった。
希望はうなずき、スタジオを出た。
ドアが静かに閉まる。
廊下に戻った途端、音が少し遠くなった。
希望は、少しだけ上を向いた。
ひなたの姿と、あの時の自分が、胸の奥で静かに重なる。
あの頃の自分が、誰かに手を差し出してもらったように。
今、ひなたにも、ちゃんと見てくれる人がいる。
「頑張ってや」
小さくつぶやいた声は、廊下に吸い込まれていく。
希望は、すぐに表情を整えた。
そして、いつもの歩幅で、廊下を歩いて行った。




