第37話「ふたりの夜」
翌日、お昼過ぎ。
みらいは、軽く深呼吸をしてから、家を出る。
スマホの画面を閉じて、ポケットに入れたあとも、胸の奥に残っている感覚は消えなかった。
昨夜のやり取り。
待ち合わせの場所を決めるだけの、短い文章。
それだけなのに、眠る前まで何度も思い返してしまった。
長居公園まで、ゆっくり息を整えながら歩く。
空は高く、初夏の陽射しが芝生を明るく照らしていた。
駅近くのベンチのそばで待っていると、少し遅れて直人がやってきた。
「ごめんなさい、待ちました?」
「ううん、大丈夫です」
みらいは笑って首を振る。
二人は、並んで歩き出す。
まだ少しだけ緊張は残っている。
でも、直人の隣を歩いていると、その緊張も、ゆっくりほどけていく気がした。
「あのあたり、良さそうです」
直人が少しひらけた木陰を指差す。
芝生にシートを広げ、みらいはバッグからお弁当を取り出した。
「ちょっと頑張ったんですけど……」
卵焼きと、小さめのおにぎり。
他は、簡単なおかずを詰めただけで、特別豪華というわけではない。
でも、朝から何度も味を確認した、みらいなりのお弁当。
直人は少し目を丸くしてから、やわらかく笑った。
「うん。すごく、みらいさんっぽいです」
ゆるやかな風が吹き、芝生が揺れる。
二人で並んで食べながら、
仕事の話。
大学の話。
どうでもいい話。
言葉が途切れても、気まずくならない沈黙。
その時間が、みらいには不思議なくらい心地よかった。
お弁当を食べ終わり、公園内を散策する。
植物園では、いろいろな草花を見て、説明を指さしながら話す。
そのあとは、博物館で展示を見て頷きながら、のんびりした時間を過ごした。
時間は、あっという間に過ぎていく。
博物館から出て遊歩道を歩いていると、空が少しずつ橙色に変わりはじめていた。
手をつないで、帰る方向へ歩いているとき。
みらいは、少し迷ってから口を開いた。
「あの……このあとなんですけど」
一度、言葉が止まる。
心臓の音が、少しだけ大きくなる。
「うち、寄っていきます?」
直人がみらいを見る。
「……すぐ近くなんですけど」
一瞬だけ、驚いた顔。
でもすぐに、静かに表情をやわらげた。
「……いいんですか?」
「はい」
みらいは少し照れながら笑った。
「今日は……もう少し一緒にいたいと思って」
その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが静かに決まった気がした。
公園から、バス通りを少し歩く。
夕方の熱が残るアスファルトを、二人の影がゆっくり伸びていく。
遊歩道を歩いていたときより、言葉が少ない。
つないだ手から、直人の緊張も伝わってくるのを感じた。
そうするうち、二人は、マンションの前に着いた。
「あの……ちょっと待ってくださいね」
みらいは先に部屋に入り、明かりとエアコンをつけ、テーブルを片付ける。
「直人さん、どうぞ。ちょっと散らかってますけど……」
白を基調にしたワンルーム。
昼間の熱が残った部屋を、エアコンの涼しい風がゆっくり満たしている。
窓の外では、バス通りの車の音がかすかに聞こえていた。
「……落ち着いた部屋ですね」
直人はそう言って微笑むと、自然な流れでベッドの端に腰を下ろした。
道中での緊張が解け、二人は並んで座って話す。
話題は、みらいの部屋に置いてあるもの。
棚の上に並んだ小さなフィギュア。
大学の課題用のスケッチブック。
壁際に置かれたノートパソコン。
そして、小さな星形のライト。
「あ、それ……店の改装の時に買ったやつです」
みらいが少し照れながら言う。
「可愛かったので、予備を家にも置いてて」
直人はライトを見ながら、小さく笑った。
「なんか、みらいさんらしいですね」
「それ、今日二回目です」
みらいが笑う。
「……あ、そろそろお腹空いてますよね」
「晩ご飯、作ります」
「え……ありがとうございます」
みらいは笑顔を見せると、キッチンに立ち、夕食を作り始めた。
包丁の音。
フライパンに火を入れる音。
いつもと同じ動作のはずなのに、今日は少しだけ呼吸が浅い。
ふと振り返ると、直人がこちらを見ていた。
目が合う。
それだけで、胸の奥が少し熱くなった。
しばらくして、夕食ができあがる。
厚切りのハムと野菜の炒め物、卵焼き、インスタントの味噌汁、ご飯。
「あまりお料理得意じゃないんで……簡単なものですけど」
「いえ、美味しそうです」
二人は、向かい合って夕食を食べる。
今日の公園の話。
空の色。
風のぬるさ。
芝生に座った時の感触。
どうでもいい話が、不思議なくらい途切れなかった。
食後。
洗い物を一緒にして、落ち着いた時間。
二人は、ベッドの端に並んで腰掛けていた。
少しだけ沈黙が落ちる。
さっきまでとは違う空気。
静かなのに、互いを意識していることだけは分かる。
直人が、ゆっくりみらいを見る。
「あの……みらいさん」
「今日は、家に呼んでもらって……ありがとうございます」
「いえ……来てくれて、本当にうれしいです」
二人の目が合う。
距離がゆっくりと近づいていく。
直人の指が、みらいに触れる。
肩にやさしく触れ、そして、抱き寄せた。
「みらいさん……好きです」
その声は、思っていたより静かだった。
だからこそ、まっすぐ胸に届いた。
みらいは小さく息を呑む。
ずっと胸の奥にあった不安が、ゆっくりほどけていく。
「直人さん……わたしも……」
言葉の続きは、最後まで形にならなかった。
どちらからともなく、唇を重ねる。
触れるだけのキス。
でも、その温度だけで、今まで積み重ねてきた時間が伝わってくる気がした。
何度か唇を重ねたあと、みらいは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「あの……」
「シャワー、浴びませんか」
「あ……そうですね」
みらいは、直人を浴室に案内し、タオルを手渡した。
ベッドに戻り、腰掛けた。
扉の向こうから、水音が静かに聞こえている。
——来てるんだ。
そう思うと、胸の奥は不思議と落ち着いていた。
直人が、浴室から出てくる。
次は、みらいの番。
洗面台の鏡の前で髪をまとめ、小さく深呼吸する。
緊張で少し赤くなった頬を見て、みらいは小さく息を吐いた。
——不思議だった。
緊張しているはずなのに、怖くはない。
たぶん、急かされていないからだ。
ちゃんと、待ってくれている。
そのことが、みらいには嬉しかった。
シャワーが終わって部屋へ戻ると、直人はベッドに腰を下ろしたままだった。
やわらかい表情でこちらを見ている。
エアコンの風が、みらいの濡れた髪をゆっくり揺らした。
言葉を探すより先に、距離が自然に縮まる。
横に座ったみらいの髪を、直人は優しくなでる。
そして、ゆっくり唇を重ねた。
触れる手の温度、互いの息遣い。
抱きしめあう腕の強さが、みらいの心を満たしていく。
そのまま、ふたりの夜は静かに過ぎていった。
——しばらくして。
気づけば、二人はベッドで肩を寄せ合っていた。
カーテン越しの街灯が、天井にゆっくり影を揺らしている。
直人の呼吸が、規則正しく近くにある。
エアコンの低い音。
遠くを走る車の音。
初夏の夜だけが持つ静けさが、部屋をゆっくり包んでいた。
みらいはふと時間が気になって、スマホを見る。
「……電車、そろそろ……」
言葉にした瞬間、少しだけ現実へ引き戻される。
直人はすぐに返事をしなかった。
一拍、考える間。
それから、静かに言った。
「あの……今日は」
「泊まっていっても、いいですか」
押しつけるような言い方じゃなかった。
確かめるみたいな声。
みらいは一瞬だけ言葉を失って、それから素直にうなずく。
「……はい」
「嬉しいです」
その瞬間、直人の肩から少し力が抜けたのが分かった。
「ありがとう」
短い言葉なのに、胸の奥があたたかくなる。
掛け布団を整えて、二人で横になる。
話さなくてもいい時間。
触れない距離なのに、ちゃんと近い。
夜が更けて、窓の外が少しずつ白んでいく。
街の音がゆっくり目を覚ますころ、直人が静かに身を起こした。
「……そろそろ、電車動いてますね」
みらいは眠い目をこすりながら、小さくうなずく。
直人は、起き上がったみらいを抱きしめ、少し長めのキスをすると、ベッドから出た。
直人は服を着て、簡単に身支度を整えた。
みらいは、見送るために一緒に玄関に出る。
靴を履く直人の背中が、昨日より少し近い感じがした。
「ありがとう、みらいさん」
ドアを開ける前に、直人は、みらいに優しく抱きしめた。
もう一度、長めのキス。
「……直人さん、またね」
直人は手を振りながら、出ていく。
ドアが閉まる音が、まだ眠っている街に溶けていった。
夜が明けていく。
部屋に戻ると、カーテン越しに、やわらかい朝の光が部屋へ広がっていた。
窓を少し開けると、夏の匂いを含んだ風が、隙間から入り込んでくる。
ベッドに残る、かすかなぬくもり。
みらいは深く息を吸った。
——ちゃんと、大事にされてる。
それは、急いだ証明なんかじゃない。
ちゃんと時間をかけて、積み重ねてきた実感だった。
洗面台で顔を洗い、鏡に映る自分を見る。
少しだけ、表情がやわらかい。
「……よし」
そのとき。
洗面台に置いたスマホが、
短く震えた。
直人からだった。
『みらいさん、今日はありがとう』
……少し間をおいて。
『あの、次から』
『みらい、って呼んでいいかな』
みらいは、一瞬、画面を見たまま固まった。
——今さら、なのに。
なのに、胸の奥がふわっと浮いた。
そして、画面の向こうの直人を思い浮かべて、小さく笑った。
みらいは、迷う間もなく文字を打つ。
『はい!』
『それじゃ、私も直人って呼ぶね』
送信。
恋を抱えたままでも、日常はちゃんと続いていく。
でも、昨日までとはどこか違う。
静かに、前へ進んだ日。
窓の外では、初夏の朝が、静かに動き始めていた。
昨日までと同じ街。
同じ部屋。
同じ朝。
それなのに、世界が少しだけやわらかく見えた。




