第33話「後押し」
大阪港のベイエリアから少し離れた、倉庫街の一角。
無機質な外観のスタジオの中に、柔らかな照明が落ちていた。
通販用のカタログの撮影。
室内には、撮影用の家具や雑貨が並べられている。
木目のテーブル、白いソファ、観葉植物。
日常を切り取ったような空間が、いくつも組み合わされていた。
その中で、朝倉ひなたはカメラの前に立っている。
「はい、そのまま少しだけ視線ください」
カメラマンの声に応じて、ひなたはゆっくりと顔を上げる。
指先の角度、肩の向き、重心の位置。
ひとつひとつを整えながら、静かにポーズを作っていく。
シャッターの音が、一定のリズムで響く。
撮影は、順調に進んでいるように見えた。
――けれど。
少し離れた場所で、その様子を見ていた瀬川翔太は、小さく息をついた。
違和感は、わずかなものだった。
表情も、動きも、決して崩れているわけではない。
それでも――いつもとは違う。
どこか、焦点の合っていないような。
意識の一部が、別の場所に置き去りにされているような。
そんな印象が、拭えなかった。
翔太は、ちらりと視線を横に向ける。
同じように、現場を見つめている人物がいた。
少し厳しい表情で、静かにひなたを観察している。
大橋希望だった。
その目の向け方に、迷いはない。
気づいている――そう感じられた。
翔太は、そっと一歩近づく。
「……ひなたさん、調子悪いっすね」
小声でそう言うと、希望は視線を動かさないまま、短く返した。
「気づいてましたか」
「はい」
少しだけ間を置いて、翔太は続ける。
「……そいや、知ってます?」
「何ですか」
「中村さん、先週から写真集のロケでグアムらしいっすよ。千春ちゃんの」
名前を出した瞬間、希望のまぶたがわずかに揺れた。
三住千春。去年事務所に入った新人女優である。
「……なるほど。知りませんでした」
「いや、ちょこちょこスマホ見て、落ち込んでるとこ見てたんで」
視線はひなたに向けたまま、翔太は淡々と言う。
「たぶん中村さん絡みだろうなと思って、スケジュール調べてみたんです」
希望は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……三浦くん、流石です」
「いえ、どうも」
ちょうどその時、撮影が一旦止まる。
休憩の声がかかり、スタッフがそれぞれ動き出した。
ひなたは、用意された椅子に腰を下ろす。
手元の水に口をつけながら、少しだけ視線を落とした。
その仕草を確認してから、希望は歩き出す。
「ひなたさん、ちょっといいですか」
「はい」
ひなたは、すぐに立ち上がった。
二人は、スタッフのいないスタジオの端へと移動する。
照明の届かない、少しだけ影の落ちる場所だった。
少しの間を置いて、希望が口を開く。
「今日の撮影、見ていましたが」
その声は、静かで、無駄がない。
「少々、現場に集中できていない感じがします」
ひなたの肩が、わずかに揺れた。
「あ……すみません。気をつけます」
反射的にそう返す。
けれど、その声はどこか弱い。
希望は、すぐには続けなかった。
一呼吸分の間を置いてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あの……ひなたさん」
視線が、まっすぐに向けられる。
「プライベートなことで、悩みはないですか」
ひなたは、息を詰めた。
「例えば……男性のこととか」
核心だった。
逃げ場のない問いではない。
けれど、曖昧に濁すこともできない位置にある言葉。
――気づかれている。
やっぱり、この人には隠し事はできない。
視線を落とす。
胸の奥にあったものが、ゆっくりと形を持ち始める。
「あ……あの、希望さん、私……実は……」
言葉にしようとした、その瞬間。
希望は、軽く手を上げて、それを止めた。
「いえ、言わなくていいんです」
穏やかな声だった。
ひなたは、思わず顔を上げる。
「ただ……悩んでいるんでしたら」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「気持ちは、しっかり伝えたほうがいいと思いますよ。老婆心ですが」
予想していた言葉とは、違っていた。
問い詰められるでもなく、聞き出されるでもない。
ただ、方向だけが示される。
ひなたは、少しだけ戸惑った表情を見せた。
「伝えて、だめだったら、そこまでですが」
その言葉には、余計な慰めがなかった。
「でも、伝えなければ……後悔するだけですから」
静かに、言い切る。
そこにあるのは、経験の重さだった。
ひなたは、その言葉を受け止めるように、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
小さく息を吸う。
胸の奥で、何かが少しだけ整う。
けれど。
次の瞬間、希望の表情が引き締まった。
声の調子が変わる。
「ただ、今は仕事に集中してください」
現実に引き戻す、一言。
ひなたは、すぐに背筋を伸ばした。
「はい……希望さん!」
深く頭を下げる。
その動きは、先ほどよりもはっきりしていた。
ひなたは、そのまま元の位置へ戻っていく。
少し離れた場所で見ていた翔太は、視線だけで合図を送った。
希望は、それに気づく。
わずかに目を向ける。
口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
やがて、撮影が再開される。
カメラの前に立ったひなたは、先ほどとは違っていた。
視線の焦点。
身体の軸。
動きのひとつひとつ。
どれもが、しっかりと“そこにある”。
シャッターの音が、またリズムを刻む。
その様子を見ながら、翔太は小さく息を吐いた。
――希望さん、流石です。
そう思うと同時に、少し気になった。
ひなたを見つめる、希望の横顔。
その視線の奥にあるものを、想像する。
――やっぱ、実体験だよな。
声には出さず、胸の中でつぶやく。
スタジオの空気は、何事もなかったかのように流れていた。




