第32話「恋愛相談」
梅雨明けも、もうすぐそこまで来ていた。
夕方の空気は、思っていたよりも少しひんやりしていて、
昼間に残っていた湿気を、ゆっくりとほどいていくようだった。
みらいとひなたは、並んでAuroraの事務所を出る。
今日は、SNS向けのショート動画の撮影。
段取りも、表情も、特に大きなミスはなかったはずだと、みらいは思う。
いつも通りにやれた、という感覚が、静かに残っていた。
二人は、商店街を抜けて、南森町の駅前に出る。
仕事帰りの人たちが行き交う音が、どこか落ち着いたリズムを作っていた。
昼間とは少し違う、やわらかいざわめき。
少し歩いたところで、ひなたの歩調が、ほんのわずかに緩む。
「あのさ」
その声に、みらいは自然と足を止めた。
「このあと、少し時間ある?」
いつもより少しだけ、慎重な言い方だった。
「大丈夫だよ」
そう答えると、ひなたは小さく息を吐く。
「じゃあ……」
「カフェ、行かない?」
誘うというより、確認に近い声。
みらいは、ほんの少しだけ胸の奥に引っかかるものを感じながらも、うなずいた。
「うん、いいよ」
それから、ふと思い出す。
この近くに、前から気になっていた小さなカフェがあったこと。
人通りの多い通りから一本入った、静かな場所。
今の空気に、ちょうどいい気がした。
「この近くに、行きたかったカフェがあるんだけど」
そう言うと、ひなたはすぐにうなずく。
「うん、そうしよ」
その返事を聞いて、みらいの胸の奥が、少しだけ緩んだ。
少し歩いて、店の前に着く。
扉を開けると、焼きたてのパンとコーヒーの香りが、ふわりと広がった。
夕方の店内は静かで、窓際の席が空いている。
「ここ、どう?」
「うん、いいね」
向かい合って座る。
頼んだカフェラテが運ばれてきても、ひなたはすぐに手を伸ばさなかった。
カップの縁に、指先だけが触れている。
何度か、同じところをなぞるように。
最初は、今日の撮影の話を少しだけ。
言葉は続くのに、どこか落ち着かない空気が残る。
ひなたの視線が、ときどきテーブルに落ちる。
沈黙が、少しだけ長くなったとき。
「ね、みらいちゃん」
その呼び方で、みらいの背筋がわずかに伸びる。
「……相談しても、いい?」
間を置かずに、答えた。
「もちろん」
ひなたは、視線を落としたまま話し始める。
「知り合いのカメラマンさんがいてね」
「実は、毎日連絡取ってたんだけど……」
言葉が、途中で止まる。
みらいは、何も言わずに待つ。
急かさないことだけを、意識していた。
「……実は」
小さく息を吸ってから、
「中村さん、っていう人なんだけど」
その名前を聞いた瞬間、みらいの中で、記憶が静かにつながる。
「あ……」
「もしかして、振袖撮影のときの……」
「そう」
「その人」
ひなたは、少しだけ苦笑した。
「最近、ロケで忙しくて」
「ここ数日、ほとんど返事がなくてさ」
言葉は落ち着いている。
でも、その間に、わずかな揺れが混じる。
「毎日連絡取ってたのに、ここ数日ほとんど既読スルーみたいになってて……」
「仕事なのもわかってるし、責めたいわけでもないんだけど」
一拍、置いて。
「……でも」
「ちょっと、不安になる自分がいて」
「勝手に『もう私に興味ないのかな』とか考えちゃう自分が嫌になってる」
その言葉に、みらいの胸の奥が、静かに鳴った。
——あ……ひなたちゃんも、似た感じなんだ。
「まだね」
「好き、って言ったわけでもないんだけど」
みらいは、小さくうなずく。
「言ってないからこそ」
「考えちゃうよね」
「……うん」
ひなたの声が、ほんの少しだけ緩む。
短い沈黙。
店内の音楽と、食器の触れ合う音だけが流れる。
みらいは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「でも、ひなたちゃんが不安になるのって」
「ちゃんと大事に思ってるからだと思う」
ひなたは、何も言わずに聞いている。
「ちゃんと向き合ってると思うし」
それだけ言って、少しだけ間を置く。
「……わたしも、ちょうど似た感じで」
自然に、自分の話を重ねる。
「彼、最近ちょっと忙しくて」
「連絡が、前より遅くなってるんだ」
苦笑する。
「分かってるんだけどね」
「仕事だしって思うし」
一度、視線を落とす。
「でも、返事が来ない時間が続くと」
「……考えちゃうよね」
ひなたが、小さく笑った。
「一緒だね」
「うん」
その言葉だけで、少しだけ空気がやわらぐ。
ひなたは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと。
「……話してよかった」
みらいは、その一言で、この時間の意味を理解した。
「わたしも」
店を出るころには、空はすっかり夕暮れに近づいていた。
街の色が、ゆっくりと変わっていく。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ。声かけてもらえて、嬉しかった」
駅へ向かって歩きながら、みらいは思う。
不安が消えたわけじゃない。
けれど。
言葉にして、誰かと共有した分だけ、
少しだけ、前を向けている気がする。
その感覚が、今は確かだった。
夕暮れの街の中を、並んで歩いていく。
二人とも、少し肩の力が抜けたような足取りで。




