第31話「不安」
梅雨のころ。
朝から降り続く雨が、街の音をやわらかく包んでいた。
窓の外は、淡くにじんだ灰色。
行き交う人影も、どこか輪郭がぼやけて見える。
店内は、少しだけ静かな時間帯。
みらいは、レジ横で伝票をまとめていた。
指先はいつも通り、迷いなく動いている。
声も、変わらない。
けれど。
ふとした瞬間に、視線が遠くへ抜ける。
ほんの一秒ほどの空白。
すぐに戻るけれど、その回数が、少し増えていた。
カウンターの端に置かれたスマホ。
通知が来ているはずの時間でも、手に取らないままのことが増えている。
画面を開いても、少しだけ間が空く。
既読がついたまま、返ってこないやりとり。
短くなった返信。
前ならすぐに続いていた会話が、途切れたまま残っている。
Atelier Étoileの仕事が終わり、次の仕事で直人が忙しいのは知っていた。
でも。
——忙しいだけ。
そう思っているのに、指先が少しだけ止まる。
ひかりは、カウンター越しにその様子を見ていた。
視線を外したまま、何気ない声で呼ぶ。
「ちょっと、みらい」
「はい?」
顔を上げる。
表情はいつも通り、整っている。
「最近、ちょっと上の空やな」
一瞬、みらいの動きが止まる。
「……そうですか?」
声は平静。
でも、目が、わずかに泳ぐ。
ひかりは、その反応を見て、ほぼ確信していた。
少しだけ間を置いて、軽く言う。
「男か?」
「えっ——」
分かりやすく、肩が揺れる。
「ち、ちが……」
「ちがくは、ないですけど……」
語尾が、頼りない。
——分かりやす。
ひかりは、思わず小さく笑った。
「はは」
「そんな顔するってことは、図星やな」
「……いや、その」
「まだ、なんていうか……」
視線が泳ぐ。
自分でもうまく言葉にできていない顔。
ひかりは、それ以上踏み込まない。
「まあまあ」
「言わんでええよ」
みらいが、少しだけほっとした顔をする。
「ただな」
声のトーンが、ほんの少しだけ落ちる。
「会えへん時期って」
「だいたい、いちばん考えるから」
みらいは、静かにうなずく。
「好きやから不安になるんも」
「距離感じるんも、普通や」
一拍。
「せやけど」
「不安な顔のまま仕事するのは、もったいないで」
みらいの顔が、少しだけ上がる。
「みらいは、ちゃんと立ててる」
「今まで通りでええ」
少しだけ、考えてから。
「……会えないときのほうが」
「いろいろ考えちゃって」
「せやろな」
ひかりは、軽く笑う。
「でもな」
「考えすぎて、勝手に結論出さんこと」
それだけ言って、伝票を手に取る。
「答えは」
「会えたときに、ちゃんと顔見て決めたらええ」
みらいは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
「ええよ」
「先輩やから」
ひかりはそう言って、何事もなかったみたいにカウンターに戻った。
手元の作業を再開しながら、視線をわずかに動かす。
——まあ、大丈夫やろ。
そう思う。
ほんの一瞬だけ、別の顔が浮かぶ。
真面目そうな、少し不器用な男。
——ほんま、真面目すぎる男は困りもんやで。
小さく息を抜く。
それ以上は考えない。
踏み込みすぎるのは違う。
今はまだ、あの子の問題や。
そして、レジ横で伝票をまとめるみらいの横顔を、少し見つめる。
変わらないように見える動きの中に、
わずかな揺れが残っている。
それも、今はそのままでいい。
ひかりは、心の中でそっと付け足した。
——ちゃんと、大事にされる顔してるで。
店内には、雨音だけが、静かに続いていた。




