28
二人は黒あわびの切り身を箸でつまみ、口の中へ急いで放り込んだ。黒あわびから漂う上品で濃厚な酒と磯の香りが、余命僅かな体を叩き起こし、そうさせているのだ。
口に入れた途端に、二人の動きがピタリと止まってしまった。
そして二人ともが、涙を流していた。
「さぁ、私の作った秘蔵の酒もあるよ。ゆっくり味わって食べなさい」
舌に乗っていたはずの黒あわびは、乗せた瞬間にその姿を消してしまったように二人には感じられていた。
とろけるように柔らかいのだ。
そして姿を消すと同時に、漂っていた匂いと同じ上品な香りが鼻へ向かって、さらに強さを増して抜けていく。
二人はその一口を五分以上かけて堪能していた。もちろん本人達はそれほどに時間を掛けているつもりなどない。一口目を堪能し終えるまで二口目へいくことを体が拒んでいるのだ。
体内、腹の辺り、内臓が熱くなる。
ダディは機能不全を訴えていた体中の組織が再び動き出しているような感覚を覚えていた。ムッシュも、硬化した皮膚が生まれ変わっているような感覚を覚えている。
二人の体が、うっすらと光を帯びていた。
「ムッシュ! お前、その格好はなんだ!? バンカラなんて時代錯誤もいいところじゃないか!?」
「ふん、お前こそラッパズボンに髪など伸ばして。偉そうにサングラスなどかけやがって。軟弱な男だな。その格好もレイキャビークからやってきたとかいうミュージシャンの真似か?」
「あら? ムッシュ君にダディ君じゃない? ムッシュ君は相変わらず可笑しな格好をしているのね。ふふ……」
「ほら見ろムッシュ! やはりバンカラは流行らんぞ? シンシアの言うことは女性の貴重な意見だとおも……シンシアの格好も大概だな! なんだそのヒラヒラの服は?」
「…………」
「これはロリータファッションと言ってね、いつか流行らせてやろうと思ってるの! ダディ君も、そんな流行の服ばかり着てないで、ムッシュ君みたいな個性的な服を着たらどうかしら? それじゃあまたね!」
「…………」
「ろりーたふぁっしょん……? 凄い格好だったな……ん? ムッシュ、お前顔が赤いぞ?」
「そ、そんなことはない!」
「ならなんで一言も喋らなかったんだよ……ったく……」
二口目は丁寧に口に運んだ。
不意打ちのように突然なくなってしまう感覚を避けるため、ゆっくりとその柔らかさと芳醇さを噛み締めながら。
そして堪らず猪口に西京の秘蔵酒らぶ殺しを注ごうとしたムッシュの手から、とっくりが奪われた。
「ダディ……」
「ガッハッハッハ……飲め。我が友よ」
ムッシュには、そう言って笑うダディの顔が若い頃のダディのものに見えた。
ダディが傾けたとっくりからムッシュの持つ猪口へ、ゆっくりと酒が注がれた。
「ムッシュ! 見ろ!! ここから入れそうだぞ!!」
「…………」
「……?? どうしたんだムッシュ!! 急に黙り込みやがって。大発見だぞ!?」
「ああ……いや、それはそうなんだが……」
「何か気になることでもあるのか?」
「ああ、そうだな、ダディには思いついたことは何でも言う約束だったな。なぁ、ダディ。おかしいと思わないか?」
「何がだ?」
「後世の人間が残した古代人に関する資料は少ない。その少ない資料にあるのは古代人が残した施設や道具のものばかりだ。それももちろん知りたいが……古代人はどんな生活を送っていたんだろうな……」
「……うん? 生活? そりゃ、俺達と同じように生活してたんじゃないのか? 俺はこれだけ技術が進んでたのになんで滅んだのかが気になるな」
「それもそうなんだが……例えば古代人はどんな文字を使っていたんだ?」
「文字?」
「俺は見たことがない。どんな文献にもないし、今まで見てきた古代の施設や遺跡にも文字がどこにも見当たらなかった……なぁダディ、本当に古代人は技術が進んでいたのか? 本当は文字も扱えないような奴らだったんじゃないか?」
「お前、たまに難しいこと言うな……そうだな……技術が進歩してたんだろう? それも俺達が想像もできないくらいに……文字も言葉もいらないくらいに進歩してたんじゃないのか?」
「…………っ!!」
「おーい、ムッシュ? 固まっちまってどうしたんだ?」
「それだっ!! ダディ!! きっとそうだ! そうに違いない!!」
「うわっ!! おいおい、適当に言っただけだぞ? そんなに興奮するなよ……全くお前ってやつは……」
三口目は香りを楽しみながら。
目に沁み、鼻に沁み、脳を刺激し心に染み込んだ。酒の辛さがまた沁みる。
秘蔵と言うだけあって相当の銘酒だった。
泣けてくるのは黒あわびと酒のせいだけなのだろうか。
「ダディ、お前も飲め」
ムッシュからの返杯を受けるダディの目には、ムッシュが若かりし日の姿そのものに見えていた。
「思い出すであるな……色々とな」
「そうだなダディ。次は二人でどこへ行こうか……」
「そうであるな……抱えるには少々歳をとりすぎたが……それでも次があるなら……」
「ねぇ、ダディ君。これ、読んでみて」
「これは……へぇ、シンシアは絵が上手いんだな」
「あら? 見たことない? これね、マンガっていうのよ。あたしアークレイリの本屋さんでこれを売ってもらえることになったの!」
「え!? すごいじゃないか!! へぇ! じゃあシンシアは絵描きになるのか!」
「ふふ、そこはマンガ家か作家って言って欲しいわね。先生でもいいわよ?」
「……そ、それはそうとシンシア……」
「なぁに? ダディ君」
「シ、シンシアは……その、け、結婚とかはしないのか?」
「え!? どうしたの? 急に!!」
「え? あ、いや、ほら、俺達ももう卒業だろ? 将来のこととかも考えなきゃいけないしな!! お、お、俺はそんな相手いないけどな! シンシアはどうなんだ?」
「…………気になる人はいるわよ……ずっと前から」
「えええ!? そ、そうなの……か? だ、誰なんだ?」
「ばっ! 馬鹿ねっ! 言うわけ……ないでしょ……」
「あ……あはは、そ、そうだよな……!! ……ごめん」
「…………」
「ごめんな! 急に変なこと聞いてさっ! き、気にしないで──」
「……ムッシュ君」
「え?」
「だからっ……ダディ君には言っておきたいの……ムッシュ君よ……あたしが気になってる人……」
「…………」
「ダディ……君?」
「が、がん、がん……ば……」
「…………」
「が……が……っっっ……が、ガーーーーーーーッハッハッハ!! シンシア、顔が赤いぞぉ? そうかそうか、よっぽどムッシュに惚れているんだな? よし、俺が協力してやるよ! なんてったって俺とムッシュは親友だからな!」
「ダディ君……」
「心配しなくていいよ、シンシア。誰にも言ったりはしない。打ち明けてくれてありがとうな!」
「…………ごめんなさい…………」
「謝ることなんて何もないさ! ガーーーーーッハッハッハ!!」
「ごめん……なさい……」
四口目は最後の一口。
気付けば西京のサイコガードは海面から半分顔を覗かせていた。
月明かりの射す海の上。
静かな波音が心を落ち着かせ、海の風が火照った体を優しく撫でる。
「ムッシュよ……楽しかったな……」
「そうだな、ダディ……楽しかった」
「人生とは、分からぬものだな……」
「ああ、でも後悔はしてないさ……」
「ガハハ。ワシもであるな!」
「ありがとうな……ダディ」
「ムッシュよ……最後に貴様と再会できてよかった……」
「シンシアがな……いつもお前の心配ばかりしていたんだ」
「ガハハ! そうか」
「俺もすぐに行く。向こうに行ったら三人で飲みなおそう」
「ガハハハ……それも悪くないであるな」
「……乾杯だ、ダディ」
「……うむ。互いの人生に、な」
二人は見つめあいながら手に持つ猪口をかかげた。
そして酒に映る月をぐいっと飲み干し、二人は最後の黒あわびに箸をつけ、ゆっくりと口へ運んだ。
「ダディ!! ここを離れるってどういうことだっ!!」
「ムッシュ……俺ももうそろそろ仕事をしてしっかりと生計を立てていかなきゃならんからな。いつまでも考古学をしているわけには──」
「馬鹿野郎!! おま、お、お前、俺と一緒に夢を追いかけるって言ったじゃないか!! せっかく入り口が見つかったんだぞ!? これからじゃないか!!」
「馬鹿野郎はお前だっっっ!! シンシアをどうするつもりなんだ!! 子供ができたんだろう? なぁ、お前はもう自分の道を歩かなきゃいけないんだ!! その道にはシンシアとお腹の中の子供の運命も背負ってるって分からないのか!?」
「…………ダディ…………」
「俺はここからずっと南の方へ行くことにした……もう会うこともないかもしれない……考古学は……俺だって続けたかったさ……でも……でも……」
「……すまん……」
「ガハハ、いいさ。お前はここに残ってシンシアと、生まれてくる子供のことだけを考えて生きろ!! な? それでももし俺のことを思い出してくれたら手紙でもくれや……でもな、簡単に諦めるなよ? お前はもうお前だけの体じゃないんだ。責任がある身だってことを忘れるなっ!!」
「ダディ……分かったよ……」
「最後に見つけた古代設備の調査は……任せたぞ? でもあくまでも趣味程度にな!」
「……ああ、分かってる」
「ムッシュ」
「なんだ?」
「……シンシアを幸せにしてやれ」
「ダディ……ありがとう。もちろんだ!」
黒あわびを食べ終えた二人の体が、淡く光を放っていた。
「だ、ダディ!! お前……気のせいかと思っていたがその顔!?」
「ムッシュこそ、貴様……その顔は……!!」
お互いに黒あわびを食し、夢を見ているような多幸感に包まれて、もしかしたら気のせいかもしれないと思っていた。
二人を包む光が消え、月明かりが若い青年二人を照らしていた。
信じられないものを目にして、互いに互いの顔を触りあって確かめている。
「う、嘘だろう? ダディ……あの頃のお前じゃないか……ゆ、夢でも見てるのか?」
「ガハハ……貴様、悔しいがやはり男前であるな……当時シンシアが惚れたのも納得であるな」
「ふむ、百薬の長 黒あわびか。二人が若返ったのはその効果のようだね。素晴らしい」
後ろから声をかけられ、二人は西京に注目する。
夢のような時間の終わりに夢のような出来事が起こり、その夢から現実に引き戻されたような気分になる。
そう、西京が変わらずそこに立っていて、話しかけてきたということは、紛れもない現実の証拠であった。
二人の青年は再び顔を見合わせた。
やはり若い。笑ってしまいそうになるほどに。
「ガハハハ……これが黒あわびの効能であるか……そういえば体が軽い……調子がいいであるな」
「顔だけ若くなったわけではないようだよ。どれどれ……ふむ、二人とも素晴らしく健康な肉体だね」
「…………ぷはっ!」
ムッシュは堪えきれず、とうとう噴出した。
「どうしたであるな? ムッシュよ」
「あははは、俺たちは滑稽だなダディ……西京さんの治療も拒んで……お前と二人で古代の施設を拝んでそれで終わりでいいと思っていた。黒あわびは単なる酒の肴だと思っていたが……まさか本当にここまでの効果があったとは……」
「ガーーーーーーーーーーッハッハッハ!! 貴様の言うとおりであるなっ!! そろそろ迎えが来るかと思っておったが、生き延びてしもうたわい!! しかもこんな若い歳になってしまっては人生のやり直しも同然であるな!! ガーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッハッハッハ!! たまらんわいっ!!」
「あははははは!! そうだな、勘弁して欲しいな、ダディ。それにしてもその若い格好でその笑い方は似合わないな」
「ガーーーーーーッハッハッハ!! 余計なお世話であるな!!」
『マスター……使ったのね? サイコリバース』
『おや? シャルロット君は気付いたのかい? そうだね、やはり黒あわびと言えどダディ君の体を回復させるような効果は確認できなかったよ。ムッシュ君の奇病のほうには効果があったようだったけどね。二人が食べる速度に合わせて少しずつ使わせてもらったが……ふふ、少し若くしすぎたかな?』
『……二人とも、嬉しそう……ありがとう……マスター。あたし、このご恩は忘れません! いつかお返しします!!』
『ふふ、構わないよ。私は欲しいものなど何もないからね。これからもエスパーの修行を頑張ってくれればそれでいいさ』
『はい! マスター!! ありがとうございます!!』
シャルロットが無言で西京へ頭を深々と下げた。
チョンカは、シャルロットがテレパシーが終えたのを見計らって、頭を優しく撫でてやるのだった。




