1-4 「私もお供します!」
嘉永二年(1849年)一月十八日。
この日、日野宿を大火災が襲った。あろうことか十件余りを焼く大火に乗じて盗賊が押し入る事件まで起きた。
日野宿といえば実家がある多摩の上石原から西へ三里ほどの場所。江戸の試衛館に住み込みで入門したばかりのワシの耳にも、すぐにその凶報は届いた。くしくも入門直前、ワシの実家にも賊が忍び込んだ事があった。幸いにもその時は寝たふりをすることで賊を油断させ、兄達と協力し事なきを得たが、多摩地域で相次ぐ凶行に日野の火事は賊が混乱を狙って放火したのではないかと噂されていた。
徳川の世となり二百四十年余り。
太平の世などと言うが、人の欲まで消えたわけではない。飢える者もおれば、盗みを働く者もおる。それら悪意がもたらす澱のようなものが、世の中には少しずつ溜まっていたのだろう。後の幕末混乱はそういった日本全体の鬱屈した激情が爆発した始まりだったと言えるのかもしれん。
そして嘉永三年(1850年)その強盗に押し入られたという日野の名主・佐藤彦五郎が天然理心流の門を叩いた。今回の件で危険を感じ、自らの身を守るため剣術を身につけたいのだと言う。既に自宅の再建と同時に、敷地内の離れを道場に改修しているとの事だった。そこに日野周辺の有志を集めて剣術を習得し、自衛するつもりなのだ。事情を聞いた師匠の近藤周助は、快く入門を認めた。
この度、その道場の落成を祝い、試衛館の門下生を率いて日野まで出稽古をする事となったのである。
「師匠、出稽古の折には是非とも我が家にお泊りください。先方に余計な気を使わせずに済みますゆえ」
「うむ、そうか。ならば出稽古にはイサミを連れていくことにしよう。あとは……」
「ハイ!」
他の門下生たちを押しのけ、ツネが勢いよく手を挙げた。
「私もお供いたします!」
一緒に稽古をするようになってからというもの、ツネは遠慮というものをしなくなった。いや、少々図々しくなった気すらある。すっかり天然理心流の気風に染まってしまったようだ。
「う、うむ。そうか? ならばツネと、他には……」
今回の出稽古では、日野で腕に覚えのある者たちと試衛館の門下生とで試合を行うことになっている。ツネも日々の稽古で鍛えたその腕を、一度試してみたいのであろう。
江戸の試衛館から多摩の日野宿へ向かう道中は一日がかりの歩きだというのに、早朝からツネはやけに上機嫌であった。
「ツネ、そんなに出稽古が楽しみであったのか?」
「はい!イサミさんの実家に一度、ご挨拶したいと思っておりましたので」
「? そうか……」
試衛館は藩お抱えの道場と違って、その門下生の多くは多摩地区にすむ半農半士だ。門下生の数こそ他の道場に引けは取らぬが、農村に住むゆえ出稽古に赴いて稼ぐよりほかない。月謝という形で収入を得られないのだ、そのため試衛館は年中貧乏だった。
しかし、門下生が農民だと食うものには困らない。稽古のたびに自慢の作物を差し入れてくれる。ワシの実家の宮川家もそこそこ大きな豪農だったため、よく大量の作物を届けてくれたものだ。
ツネはそのお礼がしたいのであろう。近頃は稽古の後に門下生たちと一緒に夕飯を囲む事も多くなっていた。
「しかしツネ、お父上はよく今回の出稽古を許してくれたのう。泊りがけであるのに」
「父上には何も言わず家を出てまいりました。どうせ反対されるに決まっていますから。置手紙は残してきたので、ご心配には及びません」
「よいのか⁉ 嫁入り前の娘が勝手に泊りがけで家を空けるなどと……」
「よいのです。もしもの時はイサミさんが守ってくれるのでしょう?」
「う、うむ……任せておけ。お前はこのワシがしっかり守ってやる」
そう言うと、ツネは満足そうにふふっと笑った。
日が暮れる頃、我が生家が見えてきた。随分懐かしく感じる……出迎えてくれた家族も、あの頃のままだった。
ー補足ー
・近藤 周助 天然理心流の三代目宗家。
天保十年(1839年)江戸市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町)に天然理心流剣術道場・試衛館を開設。
嘉永二年(1849年) 宮川勝太(のちの勇)を養子に迎え、自身の旧姓である島崎を与える。
文久元年(1861年)代を勇に譲って隠居。名を周斎と改める。
文久三年(1863年)京都へ行った近藤勇の代わりに、試衛館の留守を預かるため復帰しようとしたが、脳卒中を起こし断念。勇には試衛館に帰ってくるよう促していた。
慶応三年(1867年)病死。




