2-3 「ふむ。やはり今日であったか」
茶をすすっていた井上源三郎が、おもむろに訊ねてきた。
「ところで、先生はどちらにおいでかな?」
師匠が夕方になると牛込の奥方の元へ通うのは、門下生の間では周知の事実であったから、いまさら改めて聞くようなことでもない。
「先生なら奥さんのいらっしゃる長屋かと思います」
「なるほど。いつ戻られるであろう?」
「朝ご飯は向こうで召し上がっているようなので、稽古が始まる少し前には、」
「なるほど、なるほど、」
ツネもなぜ、わざわざそんな事を訊ねるのだろう?といった様子で答えていた。そのやり取りを沖田林太郎は黙って茶をすすり聞いている。
ワシは確信した。
(ふむ。やはり今日であったか)
前世でもちょうど今ごろの時分に、この二人から沖田総司の天然理心流入門について打ち明けられたのだ。
井上源三郎は、日野で八王子千人同心(国境の警備を担った半農半士集団)を務める家系の生まれだと聞いている。
その親戚筋にあたるのが林太郎で、彼は沖田家に婿養子として入り、井上の姓から沖田林太郎へと名を改めた。二人は親戚同士の顔なじみなのだ。
総司の姉・ミツが林太郎の妻であり、これまで幼い総司の面倒を見てきたのだが、そろそろ内弟子として住み込みで入門させたい――前世ではそういう話であった。
そもそも林太郎が天然理心流の門を叩いたのは、先に入門していた源三郎の紹介であるし、今回の総司入門も間に源三郎が入って取り持っているのであろう。こういう仲介役が本当に上手いのだ。
思い起こせば、組長時代も源三郎は温厚で誠実な人柄と、新選組の中では年長者だったこともあって、若い隊士たちから兄の様に慕われていた。
土方歳三が新選組を規律でもって厳しくまとめる役なら、井上源三郎は隊士同士の間に入り、話を聞いてまとめ上げる、皆の相談役であった。
ワシ自身も兄弟子として尊敬しており、親しみを込めて源さんと呼んでいる。
先ほどの妙な前置きも源さんなりの話術で、相手が知っている内容を聞き、敢えて答えさせることで意識を自分へ向けさせているらしい。
今、この席には四人しかいない。そういう”場”をちゃんと認識させてから本題を切り出すことで、これから伝える内容を理解させることに一役買っている――そう昔、聞いた覚えがある。
源さんは十人兄弟で、その三男坊。幼いころから兄弟同士の仲介役として過ごすうち身に着けた知恵なのだ。
前世通りに進むのか、ワシは確認のため聞いた。
「で?源さん、何か師匠に話でも?」
「ああ、先生には既にそれとなく伝えてはあるのだが、お二人にも話しておこう」
(相変わらず、話の持っていき方が上手い)
おそらく師匠の方には総司が入門することを承諾させているのだ。その上で話すのは、ワシとツネが変に難色を示したり反対しないよう根回しの意味があるに違いない。
ツネはともかく、特にワシが先生と同席している場面でこの話を切り出し、もし反対意見を述べたのなら、総司入門の件は流れてしまいかねないと判断されたのであろう。なにせワシは師匠の養子だ。そのうえ剣の腕を買われて迎え入れられた。内弟子を取るかどうかについて、口をはさむことも出来る。事実、ワシはこの時、反対しようかと迷っていた。
にこやかに温厚な笑みを浮かべ、源さんは言った。
「実はね、林太郎殿がソウジという子を預かっているのだが……今は十歳であったかな?」
隣で黙っている林太郎に視線を移し、話すよう促す。
「いや、数えで九つだ。沖田家は父親が亡くなった為、ワシが婿入りして家名を継いだんじゃが、ソウジは沖田家の末っ子でな。まだ幼かった故にワシの元で引き取っておったのだ」
源さんは頷くと言葉を続けた。
「その子を内弟子として、この試衛館で預かってはどうかという話になってね」
(本当なら総司は試衛館に来ない方がいいのだが……)
総司を新選組に入れないようにするには、最初から試衛館に迎え入れなければいいのだ。ここでキッパリ断れば、ワシと一緒に京都へ赴くこともなくなる。
(しかし……)
ワシには総司に対して、どうしても拭いきれない大きな懸念があった。総司はこの先、結核を患うのだ。前世の戊辰戦争では戦線から離脱し、新選組を離れて療養を続けていた。あの時ワシがもっと早く病に気付いておれば、無理をさせる事も無かったハズだ。だから京都へ行かせないのは無論の事、病気にかからぬよう、ワシが側で面倒を診てやりたい。
要するに、試衛館に迎えたいのはやまやまだが、それでもし総司がこの先、剣士として成長したのならワシが行く行かないに関わらず、浪士組に参加する話が総司に巡って来る未来もあり得る。その事を考えると決めかねるのだった。
「う――む……」
ワシは悩みに悩んだ。
ー補足ー
井上 源三郎
文政十二年(1829年)武蔵国 多摩郡 日野宿 北原(現在の東京都日野市)の八王子千人同心の家系に生まれる。兄弟5人、姉妹5人の三男
弘化四年(1847年)頃、天然理心流に入門。
文久二年(1862年)浪士組に近藤勇・沖田総司らと共に参加。
慶応元年(1865年)新選組 六番隊 組長に任命される。
慶応四年(1868年)鳥羽・伏見の戦いにおいて銃弾を受け死亡。 享年四十




