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冷徹CEOは路地裏のΩに番の印を刻む〜効率主義のスパダリが小さな古書店と俺を溺愛して離しません〜  作者: 水凪しおん


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第7話「慈しみの体温」

 九条が小鳥遊書房の前にたどり着いたとき、灰色の空から細かい雨が降り始めていた。

 息を乱しながらタクシーを飛び降り、ぬかるんだ路地を駆け抜ける。

 店の扉を押し開けると、ベルの音を打ち消すように、むせ返るような甘い香りが全身を包み込んだ。

 それは普段の文がまとっている静かで穏やかな匂いとは違う。

 ヒートによって暴走した本能が、αを求めて無防備に放つ濃密な香りだった。

 九条の脳が警鐘を鳴らす。

 血液が一気に沸騰するような感覚に襲われる。

 αとしての支配欲がうごめく。

 理性を焼き尽くそうとするが、九条はギリッと奥歯を強く噛み締めてそれをねじ伏せた。

 薄暗い店内の奥、書棚の影に、万丈目に背中を支えられて床にうずくまる文の姿があった。

 文の額には大粒の汗がにじみ、浅い呼吸を繰り返している。

 万丈目は九条の姿を認めると、安堵と悔しさが入り混じった顔で短く息を吐いた。


「来たか。俺じゃどうにもならない。早くこの熱をどうにかしてやってくれ」


 万丈目は文の肩から静かに手を離し、数歩後ずさった。

 九条は上着を脱ぎ捨て、文のそばにひざまずく。

 近づくにつれ、文の身体から放たれる熱気が肌に伝わってくる。


「文さん。私です。わかりますか」


 九条が低い声で語りかけると、文は焦点の定まらない瞳でゆっくりと顔を上げた。

 視線が交差した瞬間、文の瞳に薄っすらと涙がにじむ。

 熱に浮かされた指先が、すがるように九条のシャツの袖を掴んだ。


「くじょうさん……。あつい、たすけて……」


 その弱々しい声と、指先から伝わってくる震えが、九条の胸を締め付ける。

 かつてこれほどまでに誰かに求められたことはなかった。

 データと数字に囲まれた世界では、誰もが九条の地位や資金力を求めた。

 しかし今、文が求めているのは、九条零という一人の人間の体温そのものだった。

 九条は文の手を優しく包み込み、引き寄せるようにしてその身体を抱きしめた。


「もう大丈夫です。私がここにいます」


 九条の腕のなかに収まった文の身体は、驚くほど細く、そして燃えるように熱かった。

 文は九条の胸に顔を埋め、α特有の落ち着いた香りを胸いっぱいに吸い込む。

 ヒートによる苦痛が、九条の放つフェロモンによって少しずつ和らいでいく。

 文の口から、安堵の入り混じった甘い吐息がこぼれた。

 九条は本能のままに文を支配しようとする衝動を必死に抑え込む。

 ただ深い慈しみをもってその背中をさすり続けた。

 背骨のラインをなぞるように動く九条の手のひらが、文の強張っていた筋肉をゆっくりと解きほぐしていく。

 文は九条のシャツを握りしめたまま、熱に浮かされた頭でぼんやりと考えていた。


『こんなに苦しいのに、九条さんの腕のなかは、どうしてこんなに安心するんだろう』


 効率やデータで世界を切り捨てようとした冷たい男のはずなのに、今自分を包み込んでいる体温は、不器用なほどに優しく、そして温かかった。

 文は九条の首筋に顔を寄せる。

 その肌に鼻先をこすりつけた。


「んっ……」


 無意識の行動に、九条の身体がびくっとこわばる。

 理性の糸が切れそうになるのを、九条は深い深呼吸でなんとか繋ぎ止めた。


「文さん、少しの間、我慢してください。落ち着くまで、こうしていますから」


 九条の低い声が耳元で響き、その振動が文の身体の奥深くまで響いていく。

 時間の感覚が曖昧になる中、文の呼吸は次第に規則正しさを取り戻し、高熱による震えも収まっていった。

 香りの濃度が下がり、ヒートの波がようやく過ぎ去ろうとしている。

 文はゆっくりと目を開け、自分が九条の腕のなかにすっぽりと収まっていることに気がついた。


「九条、さん……」


 正気を取り戻した文の声に、九条は少しだけ腕の力を緩めた。


「落ち着きましたか」

「はい……。あの、すみません、こんな……」


 文は慌てて身体を離そうとしたが、足元がふらつき、再び九条の胸に倒れ込んでしまう。


「まだ無理をしないでください。体力が戻るまで、このままで」


 九条の言葉に逆らう気力もなく、文は再び目を閉じた。

 静まり返った店内に、外から微かな雨音が響いている。

 冷たい雨の日に出会った二人が、今度は雨音のなかで互いの体温を確かめ合っていた。

 少し離れた場所でその様子を見守っていた万丈目は、小さくため息をつき、店を後にした。

 自分が入り込む余地は、もうどこにもないことを悟ったからだ。


「……九条さん、ごめんなさい。先日、ひどいことを言いました」


 文は九条の胸に顔を埋めたまま、ぽつりとつぶやいた。

 九条は静かに首を振る。


「謝るのは私の方です。あなたの守りたいものを理解せず、自分の価値観を押し付けた。本当にすまなかった」

「でも、私が弱いせいで、店を守りきれないのも事実です」


 文の声は震えていた。

 億田の嫌がらせは限界に達しており、もうこれ以上この場所を守ることはできないかもしれないという絶望が、文の心を覆い尽くそうとしていた。

 九条は文の肩をそっと抱き直し、強い意志を込めて語りかける。


「いいえ。あなたは弱くない。あなたのその信念が、私に本当に大切なものを教えてくれた。だから今度は、私があなたの大切なものを、あなたの望む形で守り抜いてみせます」


 その言葉には、一切の迷いがなかった。

 文はゆっくりと顔を上げ、九条の目を真っ直ぐに見つめる。

 そこには、数字や効率で世界を測る冷徹な経営者ではなく、ただ一人の人間を守るために立ち上がろうとする男の決意があった。

 文の目から一筋の涙がこぼれ、九条のシャツに染み込んでいった。

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