第6話「熱の足音」
あの日から数日が過ぎた。
九条のオフィスからは、いつもの鋭いキーボードの打鍵音が消えていた。
広大なデスクの上には無数の資料が広げられ、モニターには複雑な株価の推移やデータが表示されているが、九条の視線はどこか遠くをさまよっていた。
報告書を読み上げている千石の声も、頭の表面を滑り落ちていくだけで、内容がまったく入ってこない。
「……九条社長、聞いていますか。このままでは明日の交渉に支障が出ます」
千石がため息をつきながら書類を机に置く音で、九条はようやく意識を現実に引き戻された。
窓の外には灰色の空が広がり、冷たい雨が降り出しそうだった。
「すまない、少し考え事をしていて……」
「何かありましたか。以前のようにフェロモンがささくれ立っています。隠そうとしても、私にはわかりますよ」
千石の指摘通り、九条の胸の奥には焦燥感と後悔が渦巻いていた。
文を助けたいという思いから発した言葉が、彼を深く傷つけてしまった。
謝罪に行かなければならないと思いながらも、自分の価値観を押し付けた手前、どの面を下げてあの木の扉を開ければいいのかわからなかった。
九条はこめかみを押さえ、深いため息をこぼす。
◆ ◆ ◆
同じころ、小鳥遊書房の店内は静寂に包まれていた。
文は一人で書棚の前に立ち、戻ってきた本を順番に並べ直していた。
しかし、その指先はわずかに震え、本を取り落としそうになる。
億田の息の根がかかった男たちの嫌がらせは、日を追うごとに陰湿さを増していた。
店の扉に心ない張り紙がされたり、夜中にシャッターを激しく叩かれたりする音が、文の神経をすり減らしていた。
それに加えて、九条との衝突による心労が、文の身体を内側からむしばんでいる。
『九条さんは、私のことを心配して言ってくれたのに……』
文は目を閉じ、九条の去り際の寂しげな背中を思い出す。
胸の奥がきつく締め付けられ、呼吸が浅くなる。
そのとき、突然ぐらりと視界が揺れた。
足元から力が抜け、文は書棚に手をついて必死に身体を支えた。
強いめまいとともに、身体の奥底から焼け付くような熱がせり上がってくるのを感じた。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
皮膚の下をドロドロとした熱い鉛が流れているような感覚に襲われる。
「はっ……、あ……」
口から漏れる息が異常に熱い。
文はそのまま床にしゃがみ込み、胸元を強く握りしめた。
甘く、むせ返るようなΩの香りが、文自身の身体からあふれ出し、薄暗い店内に充満していく。
予定よりもはるかに早いヒートの訪れだった。
極度のストレスとフェロモンの乱れが、周期を狂わせたのだ。
本能が警鐘を鳴らし、全身がひたすらにαの存在を求めて悲鳴を上げる。
苦痛と熱に浮かされる中、文の脳裏に浮かんだのは、冷たい雨の日に出会った、あの不器用で誠実な瞳だった。
「くじょう、さん……」
かすれた声が、静寂のなかに溶けていく。
そのとき、店の扉が勢いよく開いた。
小さなベルの音が鳴り響き、足音が店内に駆け込んでくる。
「文、大丈夫か。変な連中がうろついていたって……おい、文!」
声の主は万丈目だった。
差し入れの紙袋を持ったまま立ち止まり、店内に充満する異様な香りに顔をしかめる。
万丈目はβであるため本能を刺激されることはないが、その香りの異常な濃さから、文に何が起きているのかを瞬時に理解した。
慌てて駆け寄り、床にうずくまる文の肩を揺さぶる。
「しっかりしろ。ヒートか。薬はどこだ」
「学……だめ、薬、効かない……。あつくて……」
文は焦点の定まらない瞳で宙を見つめ、震える唇から無意識に名前をこぼす。
「九条さん……たすけ、て……」
万丈目は舌打ちをした。
自分ではこの熱を鎮めることはできない。
文の身体が求めているのは、あの男だけだ。
万丈目はエプロンのポケットから、以前九条から渡された名刺を乱暴に取り出した。
片手で文の背中を支えながら、スマートフォンで名刺に記された直通番号を打ち込む。
◆ ◆ ◆
九条のオフィスでは、重苦しい空気が漂う中、千石が新たな資料を展開しようとしていた。
その静寂を切り裂くように、九条のデスクに置かれたスマートフォンの着信音が鳴り響く。
画面に表示されたのは、見知らぬ番号。
普段なら無視するはずのその着信に、九条はなぜか強い胸騒ぎを覚えた。
手を伸ばし、通話ボタンを押す。
「……九条だ」
『俺だ、万丈目だ』
電話の向こうから聞こえる声は、ひどく切羽詰まっていた。
『文がヒートを起こした。薬も効かない。お前を呼んでる。今すぐ来い!』
その言葉を聞いた瞬間、九条の頭の中からすべてのデータと数字が消し飛んだ。
椅子を蹴立てて立ち上がり、コートも持たずに執務室のドアへ向かって駆け出す。
「社長! どこへ行くんですか。次の会議が……」
千石の制止の声も、九条の耳には届かなかった。
ただ、自分を呼ぶ文のかすれた声だけが、九条の心を激しく揺さぶっていた。




