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第5話 真田の者

第五話 真田の者

 真田の者。


 その名を聞いた瞬間、村の空気が変わった。


 松明の火が揺れている。


 夜の村は暗い。家々の戸は閉じられ、隙間から人の気配だけが漏れている。犬はまだ低く唸っていた。弥太が棒を握り直す音がした。


 俺は蔵の前に立っていた。


 背中には種芋がある。


 今年初めて増えた芋。


 冬の間、食べずに残した芋。


 千代が夜中に守っていた芋。


 その蔵の戸が、やけに薄く感じられた。


 先頭の男は、こちらを見ていた。


 年の頃は三十を少し越えたくらいか。武士にしては柔らかい顔をしている。だが、目だけは笑っていない。旅装に刀。後ろには三人。全員、農民ではない。


 老人が一歩前に出た。


「真田の、どちら様で」


 男は頭を下げた。


「名乗るほどの者ではございませぬ。小県より使いに参った者です」


「小県から、わざわざこの夜更けに」


「昼に参れば目立ちますゆえ」


 穏やかな声だった。


 その穏やかさが、かえって嫌だった。


 夜に来る理由を、隠しもせず口にする。つまり、こちらが拒めないことを知っている。


 老人の皺が深くなる。


「何用で」


 男はゆっくりと視線を動かした。


 村人たち。


 弥太。


 千代。


 俺。


 最後に、俺の背後の蔵。


 見ている。


 完全に見ている。


「川より流れ着いた男と、見慣れぬ食い物の話を聞きました」


 誰も喋らなかった。


 人の口に戸は立てられない、という言葉がある。


 戸どころか、壁も屋根もない。


 秘密はもう、山道を歩いてここまで来ていた。


 千代の指が俺の袖を強く掴んだ。


 男は笑った。


「そう構えずとも。奪いに来たわけではございませぬ」


 弥太が低く言った。


「奪う者は、たいていそう言う」


 男の後ろにいた一人が、わずかに動いた。


 先頭の男が手で制した。


「もっともですな」


 彼は少しも怒らなかった。


「ですが、今宵は話を聞きに参っただけです。もし本当に食えるものなら、山の村には大きな助けとなる」


 その言葉に、老人の目が細くなった。


 助け。


 便利な言葉だ。


 人間は何かを欲しがるとき、まず助けという布をかける。たいへん上品な強奪の準備である。


 老人はしばらく沈黙した。


 それから言った。


「ここで立ち話もできませぬ。火のそばへ」


 村の中央の家へ、真田の使いは通された。


 俺も呼ばれた。


 千代もなぜかついてきた。


 弥太は当然のようについてきた。棒を持ったまま。五郎も来た。老人は囲炉裏の前に座り、真田の使いを向かいに座らせた。


 男は名を、矢沢頼綱に仕える者だとだけ言った。


 矢沢。


 俺はその名に引っかかった。


 真田幸綱の弟、矢沢頼綱。


 その家中の者。


 いきなり幸綱本人ではない。


 そりゃそうだ。川から来た芋男に、初手で戦国大物が会いに来るほど世の中は親切ではない。いや、むしろ来たら怖い。物語の都合を現実が気遣い始めたら末期である。


 使いの男は、囲炉裏の火を見ながら言った。


「まずは、その食い物を見せていただきたい」


 老人は俺を見た。


 俺は頷くしかなかった。


 千代が立ち上がる。


「持ってくる」


「千代」


 老人が止める。


 千代は振り返った。


「傷物だけ。種の方は触らない」


 それを聞いて、使いの男の目が動いた。


 種。


 その言葉を拾った。


 千代はしまった、という顔をしなかった。


 彼女は分かっていて言ったのかもしれない。あるいは、隠せるとは思っていないのかもしれない。


 少しして、彼女は小さな籠を持って戻った。


 その中には、傷のある芋が三つ入っていた。


 使いの男はそれを手に取った。


 ひっくり返す。


 匂いを嗅ぐ。


 爪で皮をこする。


「芋と申すか」


「じゃが芋です」


 俺が言うと、男は俺を見た。


「じゃが、とは」


「……そういう名です」


「どこの国のものか」


 答えに詰まった。


 南米原産です、と言っても何も伝わらない。そもそも、この時代のこの場所で南米という説明が成立するのか。世界地図から始める必要がある。芋の前に地球儀がいる。面倒すぎる。


「遠い国のものです」


「南蛮か」


「かなり遠いです」


「南蛮よりも?」


「たぶん」


 男は少しだけ笑った。


「大きく出ますな」


 信じてはいない。


 当然だ。


 俺だって、夜の村で泥だらけの男に「これは南蛮より遠い国の芋です」と言われたら、まず縛る。人間、信頼の初期値は低めでいい。


 男は芋を置いた。


「食えるとか」


「食えます。火を通せば」


「毒は」


「芽と青くなったところは避けます」


「その知り方を、どこで」


「俺のいたところでは、普通に作っていました」


「お主の国では、これを多く作るのか」


「はい」


 男は黙った。


 それから、老人を見た。


「こちらの村では、もう植えたと聞いております」


 囲炉裏の火が爆ぜた。


 老人は答えない。


 男は続けた。


「今年、増えたとも」


 弥太の手に力が入った。


 千代は顔をしかめた。


「誰から聞いたの」


 男は千代を見た。


「山道には耳が多いのです」


「耳だけ歩いてるの?」


「時には、目も足もついております」


「気持ち悪い」


「まことに」


 千代の悪態を、男は笑って受けた。


 やりにくい相手だ。


 怒らない人間は面倒くさい。こちらの感情だけが余分に動く。真田関係者、最初からこういう感じなのか。やめてほしい。


 老人がようやく口を開いた。


「増えました」


 村の中で、誰かが息を飲んだ。


 老人は続ける。


「ただし、村の食い扶持にもまだ足らぬ。外へ出すほどはありませぬ」


「承知しております」


「ならば」


「知りたいのは、量ではなく、性です」


 男は俺を見た。


「どのような土に向くか。どれほどで育つか。どれほど残せば次につながるか。毒の見分けは何か。腐らせぬにはどうするか」


 俺は黙った。


 ほしいものがはっきりしている。


 芋ではなく、作り方。


 奪うなら芋を持っていけばいい。


 支配するなら知識を押さえる。


 やはり人間、賢くなるほど厄介だ。


 老人もそれを分かっていた。


「それを聞いて、どうなさる」


「山の村で試す」


「それだけでござるか」


 男は少し間を置いた。


「真田の御屋形様のお耳にも入るでしょう」


 御屋形様。


 この時期なら、真田幸綱。


 まだ幸隆と呼ぶべきなのかもしれない。戦国人物の名はややこしい。人間、出世や改名をしすぎる。データ管理の敵だ。


 老人の顔が動かない。


 だが、囲炉裏の周りの空気は確かに硬くなった。


 千代が俺を見る。


 この男は誰なの、と目で聞いている。


 俺は答えられない。


 真田幸綱。


 武田に仕え、真田家を再興し、調略に長けた男。


 その息子が、後の昌幸。


 その孫が、信繁。


 俺の知っている真田は、歴史の本と大河ドラマと観光地の中にいた。


 だが、いま目の前にいるのは、その手前の真田だ。


 生きている。


 動いている。


 村の芋を嗅ぎつけて、夜に使いを寄こす程度には。


 男は芋を指で転がした。


「この芋、ひとつからいくつ採れました」


 俺は答えない。


 老人が代わりに言った。


「株によります」


「多くて」


「十ほど」


 男の指が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、見えた。


 十。


 その数字が、彼の中で別のものに変わった。


 鍋の中の食べ物ではない。


 蔵の中の備えでもない。


 畑の面積。


 村の数。


 山城の籠城日数。


 兵の腹。


 そんなものに換算された。


 たぶん。


 俺は勝手にそう思った。


 男は穏やかに言った。


「なるほど」


 その「なるほど」が、嫌だった。


 千代が口を挟んだ。


「でも、全部が十じゃない」


「ほう」


「腐ったのもある。小さいのもある。踏んだのもある」


「踏んだ」


「子どもが踏んだ」


 子どもの誰かが外で気まずそうに身じろぎした。


「それに、食べる分と残す分を分けないといけない。全部食べたら終わり。春原がそう言った」


 男は千代をじっと見た。


「そなたは詳しいな」


「植えたから」


「名は」


「千代」


「千代殿か」


「殿じゃない」


「では、千代」


 千代は眉をひそめた。


 距離の詰め方が上手い。


 武士の使いに呼び捨てされているのに、妙に柔らかい。たぶん意図的だ。人間、戦わずに相手の間合いへ入る技術を発達させすぎている。やはり危険。


 男は俺に戻った。


「春原殿」


「殿じゃないです」


「では、春原」


 この家系、呼び方を武器にしてくるのか。


「この芋を、山の畑でも作れるか」


「土によります」


「痩せた土では」


「できる可能性はあります。米よりは」


「水は」


「水田ほどはいりません。ただ、乾きすぎれば駄目です。湿りすぎても腐ります」


「寒さは」


「寒い土地には向いています。ただ、霜には注意がいる」


「保存は」


「暗く涼しく。凍らせない。光に当てすぎない。芽が出たら食べるときに取る」


「種として残す芋は」


「芽があるもの。病気や腐りのないもの。大きすぎれば切って植えることもできます」


 答えながら、俺は自分の口が嫌になった。


 喋っている。


 教えている。


 村を守るためには、真田に隠しきるより、一定の関係を作った方がいいのかもしれない。真田の庇護があれば、他から奪われにくいかもしれない。


 だが、知識は一度出たら戻らない。


 芋は土に植えれば増える。


 言葉も、人の中に植えれば増える。


 最悪だ。


 男は熱心に聞いていた。


 老人は俺を止めなかった。


 千代は膝の上で拳を握っていた。


 弥太は壁際で黙っている。


 鍋で芋が煮えた。


 いつの間にか、千代が火にかけていたらしい。傷物の芋を切って入れたのだろう。味噌の匂いがする。


 彼女は器によそい、真田の使いの前に置いた。


「食べれば」


 男は器を見た。


「よいのか」


「毒見はもう何度もした」


「それはありがたい」


 男は芋を箸で取り、口に入れた。


 噛む。


 味噌汁をすする。


 そして、静かに言った。


「腹に残る」


 老人と同じ言葉だった。


 千代の顔が少し変わった。


 たぶん、悔しかったのだと思う。


 この芋を本当に分かってほしい。


 でも、分かられすぎるのは怖い。


 食べ物の価値は、食べた相手の腹で分かってしまう。


 隠すには、あまりに正直な作物だった。


 使いの男は器を置いた。


「春原」


「はい」


「この芋を、ぜひ御屋形様にお目にかけたい」


 ついに来た。


 老人が低く言う。


「芋を持っていく、と」


「少しでよい」


「少しでも種は種」


「代わりに、村への手出しを禁じるよう取り計らいましょう」


 弥太が笑った。


 笑いというより、喉から出た硬い音だった。


「禁じる? 誰の手出しを」


「真田の手を」


「それ以外は」


 男は弥太を見た。


「このあたりで真田の目を無視する者は、多くない」


「武田は」


 その名が出た瞬間、場が少し沈んだ。


 男はすぐには答えなかった。


 やがて、静かに言った。


「武田の目に入る前に、真田が知るべきでしょう」


 正直な言い方だった。


 真田が守る。


 真田が囲う。


 真田が使う。


 全部同じ線の上にある。


 老人は目を閉じた。


 しばらく、囲炉裏の火の音だけがした。


 そして老人は言った。


「今夜、種芋は渡せませぬ」


 千代の肩が少し下がった。


 使いの男は眉を動かしただけだった。


「では」


「傷物を二つ。食べる分として持ち帰りなされ。種は来春まで出せませぬ」


「なぜ」


「まだ、この村でも足らぬからです」


 老人は火を見ていた。


「足らぬものを分ければ、皆が飢える」


 使いの男は黙った。


 それは理屈だった。


 同時に拒絶でもあった。


 男はゆっくり頷いた。


「承知しました。では、傷物を二つ」


 あっさり引いた。


 だから怖い。


 本当に奪う気なら、ここで揉める必要はない。


 見た。


 食べた。


 聞いた。


 それで十分だったのだ。


 男は立ち上がった。


「近いうちに、改めて人が参ります」


 老人は答えなかった。


「その時は、御屋形様のお言葉を携えて」


 御屋形様。


 真田幸綱。


 名前はまだ出ない。


 だが、影だけが囲炉裏の向こうに座っているようだった。


 男たちは傷物の芋を二つ、布に包んで持っていった。


 村の入口まで、老人と弥太が見送った。


 俺と千代は蔵の前に残った。


 松明の火が遠ざかる。


 犬がまた一度吠えた。


 やがて、夜は静かになった。


 千代が口を開いた。


「春原」


「はい」


「取られたね」


「二つだけです」


「二つだけじゃない」


 彼女は蔵を見た。


「食べ方も、植え方も、聞かれた」


「全部は話してません」


「でも、たくさん話した」


「……はい」


 反論できなかった。


 千代は俺を責めるように見た。


 でも、すぐ目を逸らした。


「ごめん」


「なぜ」


「あんただけが悪いみたいに言った」


「悪いところはあります」


「でも、黙ってたらどうなったか分かんない」


「はい」


「真田って、強いの?」


「強いです」


「春原の国でも有名?」


「有名です」


「怖い?」


 俺は少し考えた。


 歴史上の真田は、人気がある。


 知略。小勢で大軍を破る。忠義。籠城。赤備え。大阪の陣。


 でも、それは後世の物語の中の真田だ。


 今の真田は、山の中で生き残ろうとする小領主だ。


 たぶん、もっと湿っている。


 もっと泥がついている。


「怖いです」


 俺が答えると、千代は頷いた。


「じゃあ、気をつけよう」


「そうですね」


「でも」


 彼女は蔵の戸に手を置いた。


「味方なら、助かることもあるんだよね」


「たぶん」


「敵なら?」


「かなり困ります」


「じゃあ、味方にするしかないじゃん」


 簡単に言う。


 だが、その簡単さは軽さではない。


 千代はもう、分かっている。


 芋を植えた時点で、村は外と無関係ではいられない。


 守るためには、誰かの力を借りる。


 借りれば、借りた相手の手が入る。


 畑は村のものだ。


 でも、畑の意味は村だけでは決まらなくなる。


 千代は振り向いた。


「春原」


「はい」


「もっと増やそう」


 俺は彼女を見た。


 さっき真田の使いが来たばかりだ。


 芋が見つかった。


 知識も少し漏れた。


 これ以上増やせば、さらに目を引く。


 そう言いたかった。


 千代は先に言った。


「取られるなら、取られても残るくらい増やす」


 俺は言葉を失った。


「隠すのも大事だけど、少なかったら一回で終わりでしょ。いっぱいあれば、全部は取れない」


 千代は真顔だった。


「川のやつも、流されたけど残った。拾えたから植えた。だから増えた」


 雑な理屈だ。


 でも、農業の本質でもある。


 全部は守れない。


 だから、残るように増やす。


 人間も、作物も、たぶん同じだ。


 俺は蔵の中を見た。


 種芋が並んでいる。


 傷物を二つ失った。


 だが、本当に失ったのはそれだけではない。


 真田に知られた。


 もう戻れない。


 千代が言った。


「来年、どれくらい植えられる?」


 俺は計算した。


 種芋の数。畑の広さ。村の労力。腐敗のリスク。食べる分。残す分。


 現代の紙もペンもない。


 頭の中で、芋を並べる。


「今の三倍は、いけるかもしれません」


 千代の目が光った。


「三倍」


「うまくいけば」


「またそれ」


「本当なので」


 彼女は少し笑った。


 その笑みは、昼間のように明るくはなかった。


 でも、弱くもなかった。


 夜が明ける前、真田の使いが持ち帰った二つの芋は、山道を越えていった。


 一つは、途中の小屋で火にかけられた。


 男たちはそれを分けて食べた。


 腹に残る、と誰かが言った。


 もう一つは、布に包まれたまま、小県へ向かった。


 俺はそれを知らない。


 ただ、村の蔵の前で、千代と並んで立っていた。


 遠くの山が、まだ黒い。


 その向こうに、真田がいる。


 そして、そのさらに向こうには、もっと大きな力がいる。


 武田。


 上杉。


 名前だけなら知っている。


 だが、この時代で名前はまだ物語ではない。


 腹を空かせた兵であり、年貢を数える手であり、村を焼く火であり、使者の穏やかな声だった。


 俺は蔵の戸を閉めた。


 木の戸は軽い音を立てた。


 これで守れるものなど、たかが知れている。


 それでも閉める。


 千代が隣で言った。


「芋の人」


「その呼び方、まだ続くんですか」


「真田の人にも言えばよかった」


「やめてください」


「じゃあ、川芋」


「悪化しました」


 千代は少しだけ笑った。


 その笑いが、夜の中に小さく残った。


 翌朝、村の畑には霜が降りていた。


 収穫を終えた畝は黒く沈み、芋の葉はもうない。


 けれど蔵の中には、種芋がある。


 そして山の向こうには、傷物の芋が二つ、もう村の外へ出ていた。


 芋は土に植えれば増える。


 だが、その前に。


 噂の中でも、増え始めていた。


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