第六話 山の目
真田の使いが去ったあと、村は静かになった。
静かすぎた。
誰も大声で話さない。子どもたちも、いつものように畦を走らない。女たちは水場で声を落とし、男たちは山道の方を何度も見た。
何かが起きたわけではない。
芋を二つ持っていかれただけだ。
だが、その二つは村の外へ出た。
それだけで、蔵の中の芋まで外の空気に触れたような気がした。
老人は朝から村の者を集めた。
囲炉裏のある家に、男たちと年長の女たちが座る。俺も呼ばれた。千代は当然のように俺の隣へ座った。弥太は入口に近い場所で腕を組んでいる。
老人は言った。
「芋のことは、これまで以上に外で話すな」
誰も反対しない。
「畑を増やす。ただし、見える場所ばかりには植えぬ」
俺は顔を上げた。
「見える場所ばかりには?」
「川沿いの畑、村の前の畑、それから山の奥の畑。三つに分ける」
弥太が頷いた。
「山畑なら、道からは見えませぬ」
「水はけは?」
俺が聞くと、老人は俺を見た。
「それを見てほしい」
俺は頷いた。
畑を分ける。
いい考えだった。
病気や失敗の分散にもなる。盗難や焼き討ちへの備えにもなる。全部を一か所に植えれば、失敗した時に終わる。
ただし、これはもう農業だけの判断ではない。
隠すための畑。
見せるための畑。
残すための畑。
芋は、場所ごとに意味を持ち始めていた。
千代が言った。
「山の畑、鹿が出るよ」
俺は嫌な顔をした。
「鹿」
「鹿、嫌い?」
「かなり」
「川に落ちたもんね」
「思い出させないでください」
弥太が少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
腹立たしい。戦国の若者に鹿事故を笑われるために時間を越えたわけではない。
老人は続けた。
「真田からまた人が来る。その前に、こちらの考えを固めておく」
「考えとは」
俺が聞くと、老人は火を見た。
「芋を渡すなら、守りも求める。芋を教えるなら、村を軽んじぬと約束させる」
弥太が言った。
「約束など、力がなければ破られます」
「だから、真田に約束させる」
「真田も破ります」
「破らせぬようにする」
老人の声は静かだった。
弥太は口を閉じた。
この老人は、ただの村の年寄りではない。
飢えも、年貢も、武士も知っている。正面から抗えないものと、どう距離を取るかを知っている。
俺は少し遅れて気づいた。
この村は、芋で初めて政治に触れたわけではない。
もともと政治の中にあった。
芋が、その形を見えやすくしただけだ。
会合が終わると、俺たちは山畑を見に行った。
千代が先導する。
弥太と五郎もついてくる。老人は来なかった。足が悪いのだろう。
村を出ると、道はすぐ細くなった。
落ち葉が積もり、湿った土の匂いがする。斜面には雑木が生え、ところどころに開けた場所があった。そこに小さな畑がある。焼畑の跡のような場所もあった。
「ここ、前は粟を作った」
千代が言った。
「今は?」
「休ませてる」
俺は土を見た。
石が多い。日当たりは場所による。水はけは良さそうだが、乾きやすいかもしれない。
「全部は無理です。ここと、あっちの少し平らなところなら」
「鹿は?」
「柵が欲しいです」
「柵かあ」
千代は山の方を見た。
「木ならあるけど、作るの大変だね」
「鹿に食われるよりは」
「春原、鹿に厳しい」
「個人的な因縁があります」
五郎が笑った。
「鹿と因縁のある男か」
「笑いごとじゃ……」
言いかけて、俺は黙った。
鹿が出なければ、俺はここにいない。
鹿が出たから、村に芋が来た。
因縁というなら、ありすぎる。
千代がこちらを見た。
「なに?」
「いや」
「変な顔」
「鹿について考えてました」
「ほんとに因縁深いね」
山畑の奥に、小さな祠があった。
石を積んだだけの簡素なものだ。苔がつき、前に枯れた枝が置かれている。誰かが供えたのか、木の実がいくつか転がっていた。
千代は祠の前で足を止めた。
「ここは、あんまり荒らさない方がいい」
「神様ですか」
「山の神。あと、昔死んだ人」
「昔死んだ人?」
「知らない。爺さまがそう言う」
弥太が補足した。
「このあたりは、昔、逃げてきた者が隠れて死んだ場所だと聞く」
「戦で?」
「戦で」
短い返事だった。
俺は祠を見た。
山の神。
昔死んだ人。
逃げてきた者。
そこに芋を植える。
食べ物を増やすため。
隠すため。
守るため。
何をしても、何かの上に重なる。
人間が耕す土地は、いつも誰かの過去の上にある。厄介だ。地面すら履歴書を持っている。
俺は祠から少し離れた場所を指した。
「あの辺りなら、畑にできるかもしれません」
千代が頷いた。
「じゃあ、そこは隠し畑」
弥太がすぐ言った。
「その言い方は外でするな」
「しないよ」
「今した」
「今は外じゃない。山」
「山も外だ」
「めんどくさい」
弥太はため息をついた。
その時だった。
木々の向こうで、枝が折れる音がした。
弥太がすぐ振り向く。
五郎も棒を構えた。
千代が俺の前に半歩出る。
「誰」
返事はなかった。
風が葉を揺らす。
また、かすかな音。
弥太が低く言った。
「出てこい」
しばらくして、木の陰から一人の少年が出てきた。
痩せていた。
年は十二、三か。着物はぼろく、裾が破れている。手には木の枝を握っている。目だけが異様に大きい。
村の子ではない。
千代が眉を寄せる。
「どこの子」
少年は答えない。
弥太が一歩近づく。
「何を聞いていた」
少年は後ずさった。
逃げようとした瞬間、五郎が回り込んだ。
少年は枝を振り上げた。
だが、腕に力がない。
弥太が枝を叩き落とす。
少年は転んだ。
千代が駆け寄る。
「弥太!」
「間者かもしれん」
「子どもだよ」
「子どもの間者もいる」
弥太の声は硬かった。
俺は何も言えなかった。
この時代では、たぶん正しい。
それが嫌だった。
千代は少年の前にしゃがんだ。
「名前は?」
少年は唇を噛んでいる。
「腹、減ってる?」
その問いに、少年の目が動いた。
千代は俺を見た。
俺は持っていた包みを開いた。朝、千代が持たせた焼き芋の小さな欠片があった。傷物を焼いたものだ。
千代はそれを受け取り、少年の前に差し出した。
弥太が止める。
「千代」
「話を聞くなら、先に食わせた方が早い」
「甘い」
「腹減ってるやつは、嘘も下手になる」
千代は少年に芋を渡した。
少年はしばらく見ていた。
それから、奪うように口へ入れた。
熱くもない芋を、噛まずに飲み込みそうになる。
「ゆっくり」
千代が言う。
少年はもう一欠片を探すように、包みを見た。
俺は胸が詰まった。
この顔を、俺はもう知っている。
食べ物を食べた顔。
ただ、それだけの顔。
少年はやっと口を開いた。
「下の村から」
弥太が言った。
「どこの下だ」
少年は村の名を言った。
弥太と五郎が顔を見合わせる。俺には分からない。
千代が聞く。
「なんでここにいたの」
「芋があるって」
空気が止まった。
少年は続けた。
「川から来た男が、増える芋を持ってるって。食うと腹にたまるって」
千代の顔が強張る。
弥太は少年の胸ぐらを掴んだ。
「誰から聞いた」
少年は怯えた。
「知らねえ。道で。大人が言ってた。真田の人が来たって」
もう遅かった。
真田だけではない。
噂は山の下にも落ちていた。
腹を空かせた村へ。
俺は山畑の土を見た。
隠し畑を作ろうとしていた。
でも、噂はもう隠れていない。
千代が少年に聞いた。
「あんたの村、食べ物ないの」
少年は答えなかった。
答えないことが答えだった。
弥太は少年を連れて村へ戻ると言った。
千代は反対した。
「縛るの?」
「逃がせば、さらに話が広がる」
「もう広がってる」
「だからこそだ」
「腹減ってる子を縛るの?」
「村を守るためだ」
「うちの芋は、そのためだけ?」
弥太は黙った。
千代も黙った。
山の中で、風が通った。
俺は少年を見た。
芋は人を呼ぶ。
腹を空かせた人を。
守ろうとする人を。
奪おうとする人を。
まだ真田どころではない。
村の外に、別の村がある。
そこにも腹がある。
俺は弥太に言った。
「連れて帰りましょう。縛らずに」
「逃げる」
「逃げたら、芋のことをもっと話すでしょう。縛っても同じです」
「ではどうする」
「食べさせて、話を聞く」
「それで済むと?」
「済みません」
弥太が俺を睨む。
「でも、縛っても済みません」
弥太はしばらく俺を見ていた。
やがて、少年から手を離した。
「逃げたら追う」
少年は小さく頷いた。
千代は少しだけ息を吐いた。
村へ戻る道で、誰も話さなかった。
少年は俺たちの前を歩かされた。千代が隣についた。弥太は後ろを歩く。俺はそのさらに後ろで、山道の泥を踏んでいた。
村に着くと、老人はすぐに事情を聞いた。
少年は下の村の者だった。
父は戦で死んだという。母と妹がいる。食べ物が尽きかけている。噂を聞いて、ひとりで山へ入った。盗みに来たわけではない、と少年は言った。
誰もそれを完全には信じなかった。
誰も完全には疑えなかった。
老人は芋の粥を少しだけ出させた。
千代は自分の分を少年に渡した。
少年は器を両手で持ち、最後の汁まで舐めた。
弥太はそれを見ていた。
顔は厳しいままだった。
「どうするの」
千代が老人に聞いた。
老人は火を見ていた。
「下の村へ、少し芋を分ける」
弥太が立ち上がった。
「なりませぬ」
「少しだ」
「少し渡せば、もっと求めます」
「求めるだろう」
「ならば」
「だが、求める者を全て敵にすれば、こちらももたぬ」
老人は少年を見た。
「腹を空かせた隣村は、敵より厄介だ」
その言葉は冷たかった。
慈悲ではない。
計算だった。
だが、計算の中に、食わせるという行為が入っている。
千代は老人を見ていた。
何かを言いそうで、言わなかった。
俺も黙っていた。
老人は俺に言った。
「春原。種ではなく、食べる分を選べ」
「どれくらい」
「籠に半分」
弥太が顔をしかめる。
千代は目を伏せる。
少年は器を握ったまま動かない。
俺は蔵へ行った。
食べる分の芋を選ぶ。
傷が浅いもの。
種に向かないもの。
今食べるには問題ないもの。
ただし、籠に半分となると少なくない。
手に取るたび、頭の中で来春の畑が少しずつ削れる。
この芋を渡さなければ、村の畑が増える。
この芋を渡せば、隣村の誰かが今日食べる。
どちらが正しいか。
そんなもの、簡単に決まるなら人間はこんなに揉めない。
千代が隣に来た。
黙って芋を選び始める。
「これは?」
「食べる方」
「これは?」
「迷う」
「今日は迷うの、多いね」
「いつもです」
「嘘。今日はもっと迷ってる」
俺は何も返せなかった。
籠が半分埋まった。
千代は最後に小さな芋を一つ足した。
「それは種にもできます」
「知ってる」
「なら」
「妹がいるんだって」
彼女は籠を見た。
「小さい子は、小さい芋でも喜ぶ」
俺はその芋を戻せなかった。
夕方、少年は芋を持って下の村へ帰ることになった。
一人では危ないので、弥太と五郎が途中まで送る。
老人は少年に言った。
「これは食べる芋だ。植える芋ではない」
少年は頷いた。
「芽や青いところは食うな。火を通せ」
少年はまた頷いた。
理解したかどうかは怪しい。
千代が彼の手に、さらに焼いた芋を半分握らせた。
「道で食べな」
少年はそれを見た。
「いいの」
「もう持たせたんだから、いい」
少年は小さく頭を下げた。
そのまま行きかけて、振り返った。
「増える芋は」
弥太が身構えた。
少年は続けた。
「ほんとに、増えるの」
千代は答えなかった。
俺も答えなかった。
老人が代わりに言った。
「今は、食え」
少年は芋を抱えて、山道へ消えていった。
弥太と五郎がついていく。
千代はその背中を見ていた。
「植える芋じゃないって言っても」
「植えるかもしれません」
俺が言うと、千代は少し笑った。
「そうだよね」
「芽があれば」
「増える?」
「うまくいけば」
「そっか」
彼女は山道を見続けた。
「じゃあ、もう止まらないね」
その言葉は、思ったより静かだった。
その夜、村の蔵の芋は減っていた。
籠に半分。
それだけだ。
それだけなのに、蔵の中は少し広く見えた。
俺はまた見ていた。
見ても増えない。
減ったものは戻らない。
それでも見る。
千代が隣に来た。
「また見てる」
「見てます」
「見たら戻る?」
「戻りません」
「じゃあ、なんで見るの」
「減ったことを覚えるためです」
千代は黙った。
しばらくして、蔵の中に入った。
彼女は種芋の籠の前にしゃがみ、両手を膝に置いた。
「来年、もっと増やそう」
「はい」
「うちの村の分も」
「はい」
「下の村の分も?」
俺は答えなかった。
千代は振り向いた。
「無理?」
「無理ではないかもしれません」
「じゃあ、やる」
「やれば、もっと人が来ます」
「来るね」
「真田も来ます」
「来るね」
「年貢にされるかもしれません」
「されるね」
「兵糧にも」
「なるね」
彼女は全部、分かっているように答えた。
そして言った。
「でも、食べないと死ぬ」
単純な言葉だった。
そこに戻ってしまう。
どれだけ考えても、どれだけ制度や戦や支配の話をしても、最後はそこに戻る。
食べないと死ぬ。
人間は思想より先に腹を持っている。迷惑なほど正直な器官である。
俺は種芋を見た。
「増やしましょう」
千代は頷いた。
その二日後、下の村から女が二人来た。
芋の礼だと言って、干した菜を少し持ってきた。
そのさらに三日後、別の村から男が来た。
川から来た芋のことを聞いた、と言った。
老人はすぐには会わせなかった。
弥太は見張りを増やした。
千代は山畑の柵を作り始めた。
俺は畑を三つに分ける計画を立てた。
村の前の畑。
川沿いの畑。
山の奥の畑。
見える芋。
食べる芋。
残す芋。
隠す芋。
同じ作物なのに、置き場所で名前が増えていく。
そして十日後の朝、真田から二度目の使いが来た。
今度は昼だった。
男は前と同じではなかった。
供を連れた、年配の武士。
背は高くない。顔も派手ではない。だが、村の入口に立っただけで、周囲の者が自然に黙った。
その隣に、若い男がいた。
まだ少年と言ってもいい年頃だ。
細い。
だが、目が妙に静かだった。
彼は村を見るのではなく、村の道、蔵の位置、畑への向き、山への逃げ道を見ていた。
俺はその目を見て、嫌な予感がした。
年配の武士が老人に向かって頭を下げた。
「真田幸綱が使いとして参った」
村の空気が止まる。
武士は続けた。
「名を、矢沢頼綱と申す」
俺は息を飲んだ。
矢沢頼綱。
真田幸綱の弟。
前回の使いの主。
そして、その隣の若い男。
まさか。
矢沢頼綱は穏やかに言った。
「こちらは、兄が子、源五郎」
若い男が軽く頭を下げた。
源五郎。
真田源五郎。
若い真田昌幸。
彼は頭を上げると、俺ではなく、蔵の方を見た。
そして、畑の方を見た。
最後に、俺を見た。
静かな目だった。
食べ物を見る目ではない。
道具を見る目でもない。
仕組みを見る目だった。
彼はまだ何も言わなかった。
だが、俺にはもう分かった。
芋が、また別のものに変わる。




