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土の下の数

 芽が出るまでは、村の誰もが畑を見に来た。


 朝に来る者がいた。


 昼に来る者がいた。


 夕方、野良仕事の帰りに畦で足を止める者がいた。


 子どもたちは毎日のように畝の前にしゃがみ、土をにらんだ。


「まだ?」


「まだです」


「遅い」


「芋に言ってください」


「聞こえる?」


「聞こえないと思います」


「じゃあ言っても無駄じゃん」


「農業は、そういう無駄の上に成り立っています」


「変なの」


 子どもはそう言って、畝に向かって小さく「早く出ろ」と言った。


 俺は聞こえないふりをした。


 千代は毎朝来た。


 鍬を肩に担ぎ、髪を高く結び、まだ眠そうな顔で畑へ来る。畝の間を歩き、土の乾き具合を見る。俺が教えた通り、指で土をつまみ、ぱらりと崩していた。


「乾きすぎ?」


「まだ大丈夫です」


「水、やる?」


「今はやりすぎない方がいいです。腐ることがあります」


「芋、すぐ腐るね」


「人間もすぐ腐ります」


「それは春原だけじゃない?」


「ひどい」


 千代は笑った。


 弥太も来た。


 彼は何も言わず、畑の端に立つ。周囲を見て、山の道を見て、村へ戻る。畑を見ているというより、畑を見に来る者を見ていた。


 種芋を植えたことは、村の外へは出さない。


 老人はそう決めた。


 だが、秘密というものは、だいたい人間の口より先に空気から漏れる。


 村人の顔つきが変わる。子どもが畑へ行きたがる。蔵の見張りが増える。千代が味噌汁に芋の欠片を入れなくなる。


 何かを隠している村は、何かを隠している顔になる。


 人類、秘密を持つには表情が多すぎる。


 それでも、春のあいだは何も起こらなかった。


 ただ、ある朝、畝の上に小さな緑が出た。


 最初に見つけたのは千代だった。


「春原!」


 俺が畑へ着くと、彼女は畝の前にしゃがみ込んでいた。


 土を破って、芽が出ていた。


 薄い緑の、頼りない芽だった。


 俺にとっては珍しくもない光景のはずだった。毎年見ている。芽が出て、茎が伸び、葉が広がる。それが仕事だった。


 でも、その朝の芽は、少し違って見えた。


 冬に食べなかったものが、形を変えて戻ってきた。


 千代は指を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触っていい?」


「折らないなら」


「折らないよ」


 彼女は芽の横の土にだけ、そっと触れた。


「起きた」


「起きましたね」


「全部、起きる?」


「全部は分かりません」


「また分かんない」


「農業なので」


「ほんと嫌な仕事」


 そう言いながら、彼女は笑っていた。


 やがて、芽は一つずつ増えた。


 出ない畝もあった。


 出た芽が弱いものもあった。


 雨のあと、二つ腐った。


 子どもが一度、間違って踏んだ。


 弥太が本気で怒り、子どもは泣いた。千代が弥太を怒り、弥太は黙った。俺は踏まれた株を見た。茎は折れていたが、根元は残っている。


「これ、もう駄目?」


 子どもが鼻をすすりながら聞いた。


「分かりません」


「死んだ?」


「まだです」


「本当?」


「芋は土の下にあります」


 子どもは土を見た。


 千代も見た。


 弥太も、少し離れて見た。


 折れた茎は、何日か後に横から小さな葉を出した。


 子どもはそれから、畝のそばを歩くとき、妙に大股になった。


 初夏には、畑が緑になった。


 じゃが芋の葉は、この村の人々にはまだ見慣れない形だった。粟とも蕎麦とも豆とも違う。広がり方も、茎の伸び方も違う。


 千代は畑を見るたびに言った。


「葉っぱだけなら、そんなに食べ物っぽくないね」


「葉は食べません」


「そこも変」


「土の下を食べます」


「隠れてるんだ」


「そうです」


「ずるい作物だ」


「かなり」


 土寄せをした。


 茎が伸び、根元が見え始めたころ、俺は鍬で土を寄せた。千代も真似をする。弥太も手伝った。五郎は腰が痛いと言いながら、結局一番丁寧だった。


 子どもたちは畦から見ていた。


「なんで土かけるの」


「芋が日に当たらないように」


「青くなるから」


「そう」


「毒になるから」


「そう」


「覚えた」


 村では、青いものと芽は食べない、という話がかなり広まっていた。


 広まりすぎて、ある日、子どもが青菜まで怖がった。


 説明は加減が難しい。人間の理解は、雑に増殖する。芋より厄介だ。


 花が咲いたとき、村人たちはまた畑に集まった。


 白っぽい、小さな花だった。


 千代は首をかしげる。


「これ、実がなるの?」


「実もなることがあります。でも食べるのは下です」


「花は何のため?」


「植物の都合です」


「じゃあ、人間には関係ないの?」


「まあ、あまり」


「勝手だね」


「植物なので」


 千代は花を見て、しばらく黙っていた。


「春原」


「はい」


「土の下、今どうなってるの」


「芋ができ始めていると思います」


「見えないのに?」


「見えないところで」


「……見えないものを待つの、苦手」


「俺もです」


「農家なのに?」


「農家だからです」


 千代は少し笑った。


 その頃には、村人の俺への態度も変わっていた。


 最初は、川から来た怪しい男だった。


 次に、芋の食べ方を知る男になった。


 それから、畑に何かを植えた男になった。


 今は、芋の様子を聞かれる男になっていた。


 信用、というほど綺麗ではない。


 期待、というほど明るくもない。


 どちらかというと、預けられている。


 村の空腹の一部を、俺の知識に。


 それは、かなり重かった。


 夏に入ると、雨が続いた。


 俺は畑に立ち、葉の色を見た。


 嫌な湿り方だった。


 水はけは悪くない。だが、畝の下に水が溜まれば腐る。病気も怖い。現代なら薬剤もある。種芋の管理もできる。だがここにはない。


 できるのは、畝の間の水を逃がすこと。風通しをよくすること。様子を見ること。


 様子を見る。


 この無力な仕事に、農業はかなりの時間を使う。


 千代が雨の中、蓑をかぶってやってきた。


「また見てる」


「見てます」


「見たら治る?」


「治りません」


「じゃあ何で見るの」


「悪くなったら、早く気づけます」


「早く気づいたら?」


「少しは手を打てます」


「少し?」


「少し」


 千代は黙って畑を見た。


 雨が葉を叩いている。


 緑の上で水滴が跳ねる。


「少しでも、やるんだ」


「やります」


「ふうん」


 その日、彼女は畝の間の溝を広げるのを手伝った。雨で泥が重く、足が何度も取られた。千代は転んで、膝まで泥だらけになった。


 それでも笑った。


「芋のために泥だらけって、変なの」


「農業なので」


「もう聞き飽きた」


「便利な言葉なんです」


「知ってる」


 雨は数日でやんだ。


 腐った株もいくつかあったが、全体は残った。


 千代はそれを見て、珍しく大きく息を吐いた。


 弥太は腐った株を引き抜きながら言った。


「全てはうまくいかぬのだな」


「はい」


「それでも、残るものは残る」


「そうです」


 弥太は抜いた株の根元を見た。


 小さな芋がいくつかついていた。まだ食べるには早い。小さく、皮も薄い。


「もう、できている」


「まだ小さいです」


「でも、ある」


 彼はそれをじっと見ていた。


 何かを数える目だった。


 俺はその目に気づいて、少し嫌な気分になった。


 畑の意味は、見る人間によって変わる。


 千代には、冬を越した約束に見える。


 子どもには、いつ食べられるか分からない楽しみに見える。


 老人には、村の腹の底に見える。


 弥太には、守るべき備えに見える。


 いつか誰かには、兵糧に見える。


 同じ畑なのに。


 葉が少しずつ黄ばみ始めたのは、夏の終わりだった。


 千代が慌てて俺を呼びに来た。


「春原、芋が枯れてる!」


 俺は畑へ走った。


 たしかに、茎や葉が黄色くなっている。だが、病気の枯れ方ではない。収穫が近い。


「大丈夫です」


「大丈夫なの?」


「そろそろ掘れます」


 その言葉で、畑の周りにいた子どもたちが一斉に声を上げた。


「掘る?」


「今日?」


「今?」


「全部?」


「待ってください」


 人間、待つことを学んでも、収穫前には全部忘れる。便利な脳だ。


 老人がやってきた。


「いつ掘る」


「晴れが続いたあとがいいです。土が乾いている方が」


「では、三日後だ」


 老人は即座に言った。


「村の者を集める」



 それからの三日間、村は少し浮ついた。


 誰も浮ついていないふりをしていた。


 だが、皆、畑の方を見た。


 子どもたちは畑の近くで遊ぼうとして千代に追い払われた。弥太はいつもより多く見回った。女たちは味噌の量を相談した。五郎は腰が痛いと言いながら、掘る鍬の手入れをしていた。


 俺は眠れなかった。


 夜、納屋の中で目を開けたまま、天井を見ていた。


 もし、ほとんどできていなかったら。


 小さな芋ばかりだったら。


 腐っていたら。


 冬に食べずに残した意味が、薄くなる。


 千代が夜に籠を抱えていたことも。


 子どもがもっと食べたいと言ったことも。


 老人が藁を分けたことも。


 弥太が蔵を見張ったことも。


 すべて、俺の言葉の上に乗っている。


 増えます。


 増やします。


 あの夜、俺はそう言った。


 言うしかなかった。


 だが、土は約束を守るとは限らない。


 収穫の日は、よく晴れた。


 朝から村人が畑に集まった。


 千代はいつもより早く来ていた。髪をきつく結び、袖をまくっている。顔は笑っているが、口数は少ない。


 老人が畑の端に立つ。


「まず、春原が掘れ」


 俺は頷いた。


 鍬を持つ。


 最初の株の前に立つ。


 村人たちが見ている。


 子どもたちが息を止めている。


 千代が隣に立っている。


 俺は鍬を入れた。


 株から少し離して、土を起こす。


 葉と茎を持ち、ゆっくり引く。


 根が抜ける。


 土が崩れる。


 小さな芋が見えた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 さらに、土の中に丸いものがあった。


 俺は手で掘った。


 出てくる。


 また一つ。


 また一つ。


 泥のついた、薄い皮の芋。


 形は不揃いだ。


 大きいものも、小さいものもある。


 現代の収量からすれば、たいしたことはない。


 でも、冬に植えた一つよりは、ずっと多い。


 俺は土の上に並べた。


 村人たちは黙っていた。


 千代が数えた。


「一、二、三……八、九、十」


 十個目で、声が少し震えた。


 子どもが叫んだ。


「増えた!」


 その瞬間、村が息を吐いた。


 誰かが笑った。


 誰かが手を叩いた。


 五郎が「おお」と言った。


 老人は目を閉じた。


 弥太は黙って芋を見ていた。


 千代はしゃがみ込み、泥のついた芋を両手で持った。


「ほんとに増えた」


「増えました」


「ひとつが、こんなに」


「はい」


 千代は芋を見たまま、しばらく動かなかった。


 その顔を見て、俺は胸の奥が少し緩んだ。


 よかった。


 その言葉を、口には出さなかった。


 出すと、何かが崩れそうだった。


 収穫は続いた。


 株ごとに差があった。


 よくできた株もあれば、少ない株もある。腐った芋もあった。虫に食われたものもある。小さすぎるものもある。


 それでも、掘れば出た。


 土を起こすたびに、丸いものが顔を出す。


 子どもたちは歓声を上げる。


 女たちは籠に分ける。


 千代は手際よく傷物と種用を分けようとして、途中で俺を見た。


「これは?」


「食べる」


「これは?」


「種にできる」


「これは?」


「早めに食べる」


「これは迷うやつ?」


「迷うやつ」


「やっぱり迷うんだ」


「迷います」


 昼には、畑の端に芋の山ができた。


 山と言うには小さい。


 現代の軽トラ一台分にも満たない。


 だが、この村の人々にとっては、土の下から出てきた別の季節だった。


 冬に食べなかったものが、何倍にもなって戻ってきた。


 傷物の芋をすぐに煮た。


 収穫の祝い、というほど大げさではない。だが、村人は皆、少しずつ食べた。


 味噌をつける。


 塩は少ないので、味噌を薄く伸ばす。


 子どもたちは熱がりながら食べた。


 千代は一口食べて、笑った。


「春原」


「はい」


「前よりうまい」


「たぶん、気のせいです」


「気のせいでも、うまい」


 俺も食べた。


 たしかに、うまかった。


 味は普通のじゃが芋だ。


 薄く、土の匂いがして、味噌が強い。


 でも、うまかった。


 老人は芋を食べ終えると、俺に言った。


「食べる分と、残す分を決めねばならんな」


 その一言で、浮ついていた空気が少し戻った。


 そうだ。


 増えた。


 だが、全部食べれば終わる。


 次の春の分を残さなければならない。


 村人たちの目が、芋の山へ向いた。


 さっきまで喜びだったものが、今度は分配になった。


 食べる芋。


 残す芋。


 誰に渡す芋。


 誰から隠す芋。


 芋は増えた瞬間に、ただの食べ物ではなくなった。


 老人が言った。


「春原、見てくれ」


 俺は頷いた。


 また分ける。


 傷物。食べる分。保存する分。種にする分。


 冬と同じだ。


 違うのは、数が増えたこと。


 そして、見ている人の数も増えたことだった。


 夕方近く、収穫のほとんどが終わった。


 最後に、畝の端を掘った。


 あの小さな芋を植えた場所だった。


 河原で千代が拾った芋。


 種芋にするには頼りないと思った芋。


 千代が自分で植えた芋。


 彼女は何も言わず、そこにしゃがんだ。


「掘っていいです」


 俺が言うと、千代は手で土をどけ始めた。


 鍬は使わなかった。


 指が土で黒くなる。


 爪の間に泥が入る。


 やがて、小さな芋が一つ出た。


 それから、もう一つ。


 さらに、もう一つ。


 大きくはない。


 形も不揃いだ。


 でも、六つあった。


 千代はそれを土の上に並べた。


 じっと見た。


「増えた」


「増えました」


「川のやつも」


「はい」


 千代は一つを手に取り、胸の前で握った。


 笑うかと思った。


 でも、彼女は笑わなかった。


「弟にも、食べさせたかったな」


 それだけ言った。


 俺は何も言えなかった。


 夕方の風が畑を通った。


 芋の葉はもう倒れ、土には掘り返した跡が残っている。


 村人たちの声が遠くで聞こえる。


 誰かが籠を運び、誰かが傷物を選び、誰かが子どもを叱っている。


 千代は手の中の芋を見ていた。


 それは、弟ではない。


 過去を取り戻すものでもない。


 死んだ人間は、土から出てこない。


 芋は増える。


 人は戻らない。


 その当たり前の差が、夕方の畑に静かに置かれていた。


 千代はやがて立ち上がり、その芋を俺に差し出した。


「これは?」


 俺は答えた。


「種にしましょう」


 彼女は頷いた。


「うん」


 その芋は、食べる籠ではなく、残す籠に入れられた。


 夜、村では芋の汁が作られた。


 粟と、菜と、少しの芋。


 味噌は薄い。


 それでも、いつもより鍋の底が重かった。


 子どもたちは満足そうに眠った。


 大人たちは、蔵へ運ばれる種芋を見ていた。


 老人は蔵の戸に手をかけ、しばらく中を見た。


「来年は、畑を増やす」


 誰も反対しなかった。


 弥太が言った。


「見張りも増やすべきです」


 老人は頷いた。


 俺はその横で、黙っていた。


 増えた。


 確かに増えた。


 村は少し救われた。


 だが、増えたものは、空腹だけを呼ぶのではない。


 目も呼ぶ。


 手も呼ぶ。


 計算も呼ぶ。


 夜更け、俺は蔵の外に立っていた。


 中には、種芋がある。


 去年よりずっと多い。


 その分、来年はもっと増えるかもしれない。


 その分、守るものも増える。


 千代が隣に来た。


「また見てる」


「見てます」


「見たら増える?」


「増えません」


「じゃあ何で見るの」


「減ってないか、確かめてます」


「疑い深い」


「農家なので」


「それ、便利すぎ」


 彼女は笑った。


 少しして、蔵の中を見た。


「来年、もっと植えるんだよね」


「はい」


「もっと採れる?」


「うまくいけば」


「またそれ」


「本当なので」


 千代は腕を組んだ。


「じゃあ、もっと冬を越せる」


「そうですね」


「もっと子どもが食べられる」


「はい」


「もっと、人が来るかな」


 俺は千代を見た。


 彼女は蔵の中の芋を見ていた。


 もう、気づいている。


 明るいから見えていないわけではない。


 彼女は、見えている上で笑っている。


「誰が?」


「腹を空かせた人。年貢を取る人。兵を連れた人」


 千代は当然のように言った。


「爺さまが言ってた。山の方で、いろいろ動いてるって」


「そうですか」


 それ以上、俺は答えられなかった。


 千代はふうん、と言った。


 そのとき、遠くで犬が吠える。


 一度。


 二度。


 弥太の声がした。


 村の入口の方で、人が動いている。


 俺と千代は顔を見合わせた。


 夜の道から、松明の明かりが近づいてきた。


 数は多くない。


 だが、村人ではない。


 老人が家から出てきた。


 弥太が棒を持って走る。


 五郎も起きてくる。


 松明の明かりの中に、男たちの影が見えた。


 先頭の男は、旅装に近い格好をしていた。腰に刀を差している。農民ではない。


 男は村の入口で足を止めた。


「夜分に失礼する」


 声は落ち着いていた。


「この村に、川より妙な荷とともに流れ着いた男がいると聞いた」


 千代が小さく息を飲んだ。


 俺は、蔵の戸の前に立ったまま動けなかった。


 男の後ろで、松明が揺れる。


 その火の色が、蔵の隙間から積まれた芋をわずかに照らした。


 老人が低く問う。


「どちら様で」


 男は軽く頭を下げた。


「真田の者にございます」


 夜の空気が、急に冷えた。


 千代の手が、泥の残ったまま、俺の袖を掴んだ。


 蔵の中で、種芋は黙っていた。


 今年、初めて増えた芋たちだった。


 そしてもう、見つかった。


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