第3話 食べる芋、残す芋
冬が来る前に、村は芋を覚えなければならなかった。
食べ方ではない。
食べない方法を。
それが最初の仕事だった。
河原から拾い集めた芋は、傷のあるもの、割れたもの、濡れすぎたもの、形のいいもの、芽の位置がはっきりしたものに分けた。傷物は先に食べる。濡れたものは広げて乾かす。植える分は、日が当たりすぎない場所へ移す。
言うのは簡単だった。
実際にやると、面倒くさい。
まず、村にじゃが芋用の保存場所などない。
当たり前だ。昨日まで誰も知らなかった作物のために、都合のいい貯蔵庫が用意されているわけがない。
蔵の下を見せてもらった。
暗い。風も少し通る。悪くない。
ただ、地面に湿気がある。芋を直接置くと腐りそうだった。
「下に藁を敷きたいです」
俺が言うと、弥太が顔をしかめた。
「藁もただではない」
「分かってます。でも腐らせたら全部だめになります」
「本当に腐るのか」
「腐ります」
「見たことがあるのか」
「何度も」
現代の倉庫でも、油断すれば腐る。ましてここは土と藁と木の世界だ。温度も湿気も安定しない。凍れば傷む。暖かすぎても芽が動く。光が当たると青くなる。
面倒な作物だ。
なのに増える。
だから人間は手を出す。
弥太は納得していない顔で、藁を持ってきた。俺は千代と一緒に蔵の下へ敷いた。藁の上にむしろをかぶせ、芋同士が押しつぶされないように並べる。
千代は一つ置くたびに、俺を見た。
「これは?」
「種芋」
「これは?」
「種芋」
「これは?」
「傷があるから食べる方」
「これは迷うやつ?」
「それは迷うやつ」
「迷う芋、多いね」
「農業はだいたい迷います。天気と土と虫が相手なので」
「嫌な仕事だ」
「そうですね」
俺が頷くと、千代は笑った。
「でも、あんたは好きなんだ」
俺は芋を一つ、藁の上に置いた。
「まあ」
「まあ、なんだ」
「好きじゃなきゃ続けられません」
「好きでも嫌になる?」
「しょっちゅう」
「変なの」
変なのは農業ではなく、農業を続ける人間の方かもしれない。
冬の入口、村では傷物の芋が何度か煮られた。
最初は皆、遠巻きにしていた。だが、老人が食べ、千代が食べ、弥太が食べたあと、少しずつ警戒がゆるんだ。
味噌をつける。
灰に埋めて焼く。
粟の粥に少し混ぜる。
薄く切って汁に入れる。
千代はすぐに工夫を始めた。味噌を多めにつけると腹に入ると言い、囲炉裏の灰で焼いたものは皮が香ばしいと言い、潰して丸めると子どもが喜ぶと言った。
彼女は食べるとき、よく笑った。
だが、食べ物を分けるときは笑わなかった。
小さい子に先に渡す。老人に渡す。働いた者に渡す。自分の分は最後にした。そういう順番を、誰に教わるでもなく守っていた。
俺はそれを見るたびに、少し黙った。
*
ある日、子どもが言った。
「もっと食べたい」
鍋にはもう残っていなかった。
千代は火箸で灰をならしながら言った。
「春に植えたら増える」
「春っていつ」
「雪が終わったら」
「遠い」
「遠いね」
千代はそう言って、子どもの頭を撫でた。
その手つきが乱暴だったので、子どもは少しよろけた。
冬が深くなると、空気が変わった。
浅間山から風が降りてくる。朝、桶の水が薄く凍る。畑の土は硬くなり、草は色を失った。家々の中では、煙が低くこもった。
村の食は細くなった。
粟。稗。蕎麦。干した菜。味噌。少しの米。
芋はまだあった。
蔵の下に。
暗い藁の上に。
植えるための芋として。
それが問題だった。
そこに食べ物がある。
でも食べてはいけない。
こんな残酷なことがあるか。
俺は毎日、蔵の下を見た。腐っていないか。凍っていないか。鼠に齧られていないか。芽が動きすぎていないか。
見るたびに、芋の数を数えた。
いや、実際には数えるふりをしていた。
本当は、減っていないか確かめていた。
それを自分で認めるのが嫌だった。
ある夜、雪が降った。
積もるほどではない。だが、屋根を白くし、畦を消すには十分だった。
俺は寒さで目が覚めた。
納屋の隙間から、白い光が入っていた。月明かりが雪に反射している。村の音はいつもより少ない。
何かが気になって、外へ出た。
息が白い。
見張りの五郎は、火のそばで舟を漕いでいた。弥太はいない。たぶん交代で別の場所へ行ったのだろう。
俺は蔵の方へ歩いた。
理由はなかった。
ただ、足がそちらへ向いた。
蔵の脇に、人影があった。
千代だった。
彼女は膝を抱えて座っていた。肩に薄い布をかけている。足元には、藁を詰めた籠がある。種芋の籠だった。
「何してるんですか」
声をかけると、千代は振り向いた。
「見張り」
「弥太たちは?」
「寝てる」
「怒られますよ」
「見張ってるんだから、怒られないでしょ」
「寒いでしょう」
「寒いよ」
当たり前のように言った。
俺は隣にしゃがんだ。
籠の中には、種芋があった。小さなもの、大きなもの、芽のくぼみがはっきりしたもの。藁に包まれて、じっとしている。
「盗まれると思ったんですか」
「盗まれるっていうか」
千代は膝に顔を埋めた。
「誰かが食べちゃうかもって」
「誰かって」
「誰でも」
声は軽かった。
軽すぎた。
「食べたいですか」
俺が聞くと、千代はすぐに答えた。
「食べたいよ」
月明かりの下で、彼女は笑わなかった。
「食べたいに決まってるじゃん」
俺は黙った。
蔵の壁から、冷えた木の匂いがした。
「でも食べない」
千代は籠の中の芋を一つ、指でつついた。
「食べたら終わりでしょ」
「終わりではないです」
「減る」
「それは減ります」
「春に植える分が減る」
「はい」
「じゃあ、だめ」
彼女はそれきり黙った。
俺はその横顔を見た。
強い子だ、と思うのは簡単だった。
でも、たぶん違う。
強いのではない。
彼女は、空腹と計算を同じ場所に置かれているだけだ。
食べたい。
残したい。
どちらも本当。
それを選ばされる。
俺は、自分が昼間に言った言葉を思い出した。
植える分は食べないでください。
正しい言葉だった。
でも、正しい言葉は腹の足しにならない。
千代が小さく言った。
「春原」
「はい」
「春になったら、本当に増えるんだよね」
何度も聞かれた問いだった。
でも、今回は違った。
これは知識を確認しているのではない。
今夜、食べないための言葉を欲しがっている。
俺は籠の中の芋を見た。
言い切るのが怖かった。
天気がある。土がある。病気がある。鼠がある。人間がある。
失敗はいくらでもある。
それでも、ここで曖昧な顔をすれば、この夜が保たない。
「増えます」
千代は目を閉じた。
「そっか」
「増やします」
「うん」
彼女は籠を両腕で抱え込んだ。
その姿が、子どもを抱いているように見えた。
俺はしばらく隣にいた。
雪は静かに降っていた。
誰かの腹が鳴る音も、ここまでは届かなかった。
*
翌朝、種芋は一つも減っていなかった。
ただ、籠のそばに焼けた小さな芋の皮があった。
傷物の、さらに小さな欠片を焼いたらしい。
食べたのか、匂いだけだったのかは分からない。
俺はそれを拾って、灰の中に埋めた。
冬は続いた。
芋は少しずつ村に馴染んだ。
と言っても、食べる量は多くない。むしろ、植える分を守るために、芋は遠い食べ物になっていった。
子どもたちは蔵の下を「芋の寝床」と呼ぶようになった。
千代はそれを聞いて、「寝かせてるんだから起こすな」と言った。
弥太は、蔵の見張りを以前より真面目にやるようになった。
ある日、彼は俺に聞いた。
「春原」
「はい」
「この芋は、米の代わりになるのか」
俺は少し考えた。
「完全にはなりません」
「なぜ」
「米は保存しやすい。運びやすい。年貢にもなる。この芋は、米みたいには扱えない」
「では、何になる」
弥太はまっすぐこちらを見ていた。
彼は最初より俺を睨まなくなった。だが、信用したわけでもない。疑う場所が少し深くなっただけだ。
「腹の底を支えるものです」
「よく分からん」
「米がなくても、これがあれば一日生きられるかもしれない。そういうものです」
弥太はしばらく黙っていた。
「戦の兵糧になるか」
その言葉は、寒さより冷たかった。
俺は答えなかった。
答えなくても、弥太は分かったようだった。
「なるのだな」
「運ぶには向きません。重いし、水分が多いし、腐ります」
「城に置くなら」
俺は弥太を見た。
弥太は俺ではなく、蔵の方を見ていた。
若い男の顔ではなかった。
この村を守る側の顔だった。
「籠城には、使えるかもしれません」
俺は言った。
言いたくなかった。
でも嘘はつけなかった。
弥太は頷いた。
「そうか」
それだけ言って、彼は去った。
俺はしばらく動けなかった。
芋は食べ物だ。
土に植えれば増える。
腹を満たす。
冬を越す助けになる。
それだけのはずだった。
だが、弥太の口から「兵糧」という言葉が出た瞬間、蔵の中の芋が別の重さを持った。
同じ芋だった。
でも、違うものになった。
春が近づく頃、村の空気に湿り気が戻った。
雪は畦の影に残るだけになり、昼の陽は少しずつ暖かくなった。屋根から落ちる雫が、桶の縁を叩く。凍っていた道がぬかるむ。土の匂いが戻る。
ある朝、千代が蔵の下から飛び出してきた。
「春原!」
俺は納屋から出た。
「どうしました」
「芋が!」
心臓が跳ねた。
腐ったか。
鼠か。
凍みたか。
俺は急いで蔵へ行った。
千代が籠を指さす。
藁の間から、白っぽい芽が出ていた。
細く、頼りない芽。
千代は少し怖がっている顔をしていた。
「芽、出てる」
「出ましたね」
「毒のやつ?」
「毒はあります。でも、これは植えるための芽です」
「食べちゃだめな芽?」
「食べちゃだめです」
「植える芽?」
「植える芽です」
千代は籠の前にしゃがみ込んだ。
そっと、芽に触れようとして、途中で指を引っ込める。
「起きたんだ」
そう言った。
俺はその言葉に、少しだけ笑った。
「起きました」
老人も来た。
弥太も来た。
子どもたちも戸口から覗いた。
皆、芽を見た。
昨日まで、芋はただ眠っているように見えた。
だが、今は違う。
伸びようとしている。
それだけで、村の人々の顔つきが少し変わった。
希望という言葉は使わなかった。
誰も、そんなことは言わなかった。
ただ、千代が鍬を取った。
「畑、行こう」
「まだ全部は早いです。土を見てから」
「見るだけ」
「見るだけなら」
外へ出ると、空は薄く晴れていた。
山の雪はまだ白い。だが、村の畑には黒い土が顔を出している。
俺たちは、秋に見た斜面の畑へ向かった。
千代が先頭を歩く。
ポニーテールが背中で跳ねる。籠は持っていない。まだ芋は蔵の中だ。だが、彼女の歩き方はもう畑へ何かを運んでいるようだった。
畑に着くと、俺は土を掴んだ。
冷たい。
でも、冬の底の硬さではない。
指で崩れる。
少し湿っているが、水はけは悪くなさそうだ。
「いけそうです」
千代がすぐ振り向いた。
「今日?」
「まず畝を作ります。種芋を切るのは、そのあと。切った面を少し乾かしたい」
「また待つの」
「待つのも農業です」
「農業、待ってばっかり」
「そうです」
「嫌な仕事だ」
「そうですね」
千代は笑った。
弥太が鍬を持ってきた。
五郎も来た。
子どもたちは畦に座っている。老人は少し離れたところに立ち、畑全体を見ていた。
俺は土の上に線を引いた。
「畝はこっち向きに。水が下へ逃げるように。間はこれくらい。深く植えすぎない。あとで土寄せします」
弥太が聞いた。
「土寄せとは」
「芽が伸びたら、根元に土を寄せるんです。芋が日に当たらないように」
「青くなるから」
千代が言った。
「そう」
「毒になるから」
「そう」
彼女は得意そうに頷いた。
俺は鍬を握った。
現代の柄とは違う。重さも角度も違う。だが、土を起こす道具であることは同じだった。
最初の一振りを入れる。
土が割れる。
湿った匂いが上がる。
冬の間、ずっと凍っていた匂いだ。
千代が隣で鍬を入れた。
弥太も続いた。
五郎も。
やがて、村の男たちが何人か来た。女たちも、遠くから見ていた。子どもたちは畦で小石を拾い始めた。
誰も大声で喜ばなかった。
誰も奇跡とは言わなかった。
ただ、土を起こした。
鍬を入れた。
畝を作った。
それだけだった。
昼前、蔵から種芋の籠が運ばれてきた。
千代が両手で抱えていた。
その顔は、いつものように明るかった。
でも、籠を下ろす手つきだけは慎重だった。
俺は芽の位置を見ながら、芋を切った。
切りすぎない。
芽を残す。
大きすぎるものは分ける。
小さいものはそのまま。
切り口を少し乾かすため、むしろの上に並べる。
子どもたちはじっと見ていた。
「切ったら死なないの?」
一人が聞いた。
「死にません」
「痛くないの?」
「たぶん」
「芋、かわいそう」
千代が笑った。
「食べるときはそんなこと言わないくせに」
「食べるときは芋じゃなくてごはん」
なかなか深いことを言う。
食べるときは相手の命名を変える。便利な倫理だ。
*
午後、最初の種芋を植えた。
俺が畝に穴を作る。
千代が種芋を持つ。
老人が見ている。
弥太は周囲を警戒している。
村人たちは、息を詰めている。
千代は一つ目の芋を土の上に置いた。
芽を上に。
俺が土をかぶせる。
軽く押さえる。
それだけだった。
あまりにも簡単だった。
冬の間、あれほど守ったものが、土に隠れた。
見えなくなった。
千代がしばらく土を見ていた。
「埋めちゃった」
「植えたんです」
「見えない」
「見えないところで増えます」
「ほんとに?」
「ほんとに」
彼女は土の上に手を置いた。
少しだけ、祈るような手つきだった。
だが、すぐに立ち上がる。
「次」
その声で、村が動いた。
二つ目。
三つ目。
十。
二十。
種芋は畝に並び、土に隠れていった。
食べずに残した芋。
冬を越した芋。
夜に守られた芋。
腹の鳴る音を聞きながら、手をつけなかった芋。
それらが、ひとつずつ見えなくなる。
俺は最後の芋を手に取った。
河原で千代が拾った、小さな芋だった。
種芋にするには頼りないと思った芋。
それにも、白い芽が出ていた。
俺はそれを千代に渡した。
「これ、覚えてますか」
「川のやつ?」
「はい」
「植える方に入れたやつ」
「そうです」
千代は少し笑った。
「じゃあ、あたしが植える」
彼女は畝の端にしゃがみ、小さな芋を置いた。
土をかぶせる。
両手で押さえる。
それから、手についた土を払わずに立ち上がった。
春の風が吹いた。
畑の上を通り、村の方へ抜けていく。
何も起きなかった。
芽がすぐ出るわけでもない。
空から光が降るわけでもない。
腹が満たされるわけでもない。
ただ、畑に畝ができた。
その下に、芋がある。
それだけだった。
老人が静かに言った。
「これで、待つのだな」
「はい」
「どれくらい」
「まず、芽が出るまで」
千代が空を見上げた。
「また待つんだ」
「農業なので」
「嫌な仕事」
そう言いながら、彼女は笑った。
俺も少し笑った。
遠くで、川の音がした。
あの日、俺と芋を流した川だ。
その川の音は、今も同じように続いている。
けれど畑には、もう芋が埋まっている。
食べるために残した芋が。
残すために食べなかった芋が。
まだ誰のものでもない春の土の下で、静かに眠っていた。




