第2話 味噌をつければ、だいたい人は黙る
村へ入る前に、俺は一度止められた。
止めたのは、棒を持った若い男だった。歳は俺より少し下に見える。頬がこけ、目だけがぎらついている。さっきから、俺の背中をずっと見ていた男だ。
「その腰のものは何だ」
俺は自分の腰を見た。
作業着のベルトに、折りたたみナイフと小さな工具入れが残っていた。いつもの癖でつけたままだった。川に落ちても流されなかったらしい。
「ああ、これは」
「抜け」
「いや、武器じゃないです」
「抜け」
声が固い。
俺はゆっくりナイフを外し、柄を向こうに向けて差し出した。若い男はそれを受け取り、刃を出そうとして手間取った。
千代が横から覗き込む。
「変な小刀」
「折りたたみです」
「おりたたみ?」
「刃が畳める」
「へえ」
千代は面白そうに目を光らせた。若い男は面白くなさそうに眉を寄せた。
「千代、近づくな」
「またそれ」
「知らぬ男だぞ」
「芋の人でしょ」
「だから何だ」
正論だった。
芋の人だから安全、という理屈はない。むしろだいぶ怪しい。
老人が低く言った。
「弥太。今夜は倉の脇に置く。お前と五郎で見張れ」
「はい」
弥太と呼ばれた若い男は、俺を睨んだ。
歓迎されていない。
まあ、川から濡れて現れた見知らぬ男を歓迎する村があったら、それはそれで怖い。そんな村はたぶん別の意味で終わっている。
村は、川から少し上がった斜面にあった。
板葺きの家が十数軒。畑は細く区切られ、畦には草が残っている。ところどころに粟の穂らしきものが干されていた。蕎麦の茎も見える。田は少ない。あっても小さく、山から引いた水を細く流している。
家々の間には、煙の匂いと、糠のような匂いと、獣の匂いが混じっていた。
子どもたちが遠巻きについてくる。
俺ではなく、芋の籠を見ている。
千代はその視線に気づくと、籠を抱え直した。
「これは植えるやつ。勝手に食べたらだめ」
「ちょっとだけ」
「だめ」
「千代だって食べた」
「あたしは毒見」
「ずるい」
「ずるくない。命がけ」
子どもたちは不満そうに唇を尖らせた。
でも、近づきすぎない。
その距離で、村の飢え具合が分かった。
老人は村の中央にある少し大きな家へ俺を連れていった。庄屋、あるいは名主の家だろう。中に入る前に、俺は長靴の泥を落とそうとして戸口で迷った。
敷居が低い。
土間がある。
靴を脱ぐのか、このまま入るのか。
千代が笑った。
「何してんの」
「いや、靴を」
「くつ?」
「履物です」
「草鞋みたいなもの?」
「まあ」
「変な草鞋だね。泥が逃げない」
たしかに、長靴の底には泥が詰まっていた。
俺は長靴を脱いだ。靴下まで濡れている。足先が冷たい。土間に上がると、煙の匂いが濃くなった。
囲炉裏があった。
黒く煤けた梁。吊るされた鍋。壁には農具が立てかけられている。奥では女たちが小声で何かを話していたが、俺が入ると黙った。
芋の籠が、土間の隅に置かれる。
植える分。食べる分。傷物。
俺は思わずそこへ目をやった。
傷物は早く食べた方がいい。濡れたままだと腐る。植える分は乾かしたい。直射日光には当てたくない。暗くて風の通る場所が欲しい。だが、この時代にじゃが芋の保管場所などあるわけがない。
老人が俺の目線に気づいた。
「何か気になるか」
「芋を乾かしたいです。でも日に当てすぎるとよくない。暗くて、涼しくて、風が少し通る場所があれば」
「蔵の下はどうだ」
「見ないと分かりません」
老人は頷いた。
「あとで見せる」
そこで千代が手を叩いた。
「その前に、食べよう」
全員が彼女を見た。
「毒見したのはあたしとこの人だけでしょ。爺さまたちも食べないと分かんないじゃん」
弥太が言った。
「毒だったらどうする」
「もうあたしが食べた」
「すぐに効かぬ毒もある」
弥太は俺を見る。
もっともだ。戦国の村にしては、かなりまともな危機管理である。現代人より賢い。現代人は賞味期限を一日過ぎただけで騒ぐくせに、出所不明の健康サプリは平気で飲む。どうなっているのか。
俺は言った。
「少しずつでいいです。傷がついた芋を使いましょう。芽と青いところは取る。今日は煮るだけで」
千代がすぐ鍋を引き寄せた。
「味噌は?」
「ありますか」
「あるよ」
「なら、つけたらうまいです」
その一言で、場の空気が少し変わった。
味噌。
未知の芋が、知っている味の方へ寄った。
女たちの一人が、奥から小さな器を持ってきた。赤茶色の味噌が入っている。俺はそれを見て、なぜか少し安心した。
異世界でも、味噌はある。
いや、ここは異世界ではないのかもしれない。過去だ。たぶん。
どちらにしても、味噌は強い。
人類が揉めたら、とりあえず味噌を塗れ。だいたい少し静かになる。雑すぎる平和論だが、芋には効く。
傷のある芋を洗い、小刀で芽をえぐる。
青い部分はない。
皮ごと切って、鍋へ入れる。さっきより手際よくできた。千代が横で見ている。
「そこ、なんで取るの」
「芽は毒があります」
「芽だけ?」
「青くなった皮も」
「じゃあ、芽が出たら全部捨てるの?」
「芽を取れば食べられることもあります。でも、ひどいのはやめた方がいい」
「めんどくさいね」
「食べ物はだいたい面倒です」
「米も粟も蕎麦も面倒だよ」
「なら同じです」
千代は少し考えて、納得したように頷いた。
火が強くなる。
鍋から湯気が立つ。
しばらくすると、芋の匂いが広がった。地味な匂い。腹にだけ届く匂い。
子どもたちが戸口から覗いている。女たちは黙って鍋を見ている。弥太は壁際で腕を組み、俺を見ている。老人は囲炉裏の前に座り、動かない。
煮えた芋を取り出し、少し冷ます。
俺はまず自分で食べた。
次に、千代が食べた。
それから老人が受け取った。
老人は芋を指先で割り、じっと中を見た。
白い湯気が上がる。
味噌をほんの少しつけ、口へ運んだ。
噛む。
長く噛む。
飲み込む。
誰も喋らなかった。
老人はもう一口食べた。
「腹にたまる」
それだけ言った。
その言葉で、家の中の空気が動いた。
うまいでも、珍しいでもない。
腹にたまる。
女たちにも小さく分けた。弥太にも渡した。彼は迷った末に食べた。
眉間の皺は消えなかった。
だが、二口目を食べた。
千代がそれを見逃さなかった。
「弥太、うまい?」
「……食えなくはない」
「二口食べた」
「毒かどうか確かめている」
「便利な言い訳」
弥太は返事をしなかった。
子どもたちにも少しずつ配った。彼らは熱さに顔をしかめながらも、すぐ飲み込んだ。もっと欲しそうな目をしたが、千代が籠を抱えて首を振った。
「今日はここまで」
「なんで」
「植えるから」
「食べたい」
「植えたら増える」
「いつ」
「……いつ?」
千代が俺を見る。
急に全員が俺を見た。
また説明の時間だ。
俺は囲炉裏の灰に、細い木の枝で線を引いた。
「今すぐ植えるのはよくないです。これから寒くなるなら、春に植える方がいい。霜が降りなくなってから。土を作って、畝を立てて、種芋を切って植えます」
「うね?」
「土を盛った列です。水はけをよくする」
灰の上に簡単な絵を描く。
畝。種芋。芽。土寄せ。
「芽が出て、茎が伸びたら、根元に土を寄せます。芋が日に当たると青くなるから」
「青いと毒」
千代がすぐ言った。
「そう」
「覚えた」
老人が灰の絵を見ている。
「春に植えて、いつ採る」
「夏から秋です。早く採ることもできます。でも増やすなら、しっかり育てた方がいい」
「ひとつから、いくつできる」
「土と世話によります」
「多ければ」
俺は少し迷った。
盛るべきではない。
だが、少なく言いすぎても伝わらない。
「うまくいけば、十個以上」
家の中が静まり返った。
千代の目が大きくなる。
「ひとつが、十?」
「それ以上のこともあります。でも、失敗もします。腐ることもある。病気もある。全部うまくいくとは限らない」
誰も、失敗の方を聞いていなかった。
人間は希望の数字だけを早く拾う。耳の作りが都合よすぎる。困った仕様だ。
老人は灰の上の絵を手でならした。
「その話、外ではするな」
千代が振り向く。
「爺さま?」
「まだ、誰にも言うな」
「でも、増えるなら」
「だからだ」
老人の声は低かった。
千代は口を閉じた。
俺も黙った。
老人は籠の芋を見た。
「食える。増える。毒の扱いを知る者が要る。なら、これはただの食い物ではない」
そう言って、俺を見た。
「お前さんもだ」
背筋が冷えた。
さっき、俺は芋のついでに拾われた。
今度は、芋と同じように保管される側になった。
言われる前から分かっていた。
俺はこの村を出て自由に歩ける立場ではない。見知らぬ服、見知らぬ言葉、見知らぬ作物。その栽培法を知っている男。
この時代では、歩く不審物である。
しかも腹を満たす不審物だ。
たちが悪い。
千代が老人に食ってかかった。
「でも、閉じ込めるの?」
「誰も閉じ込めるとは言っておらん」
「見張りをつけるって言った」
「当たり前だ」
「芋の人、逃げないよ」
「お前が決めるな」
千代は俺を見た。
「逃げる?」
「行くところがないです」
「ほら」
何が「ほら」なのか。
弥太が冷たく言った。
「行くところがない者ほど、何をするか分からん」
これも正論だった。
俺は弥太を少し見直した。
そして、少しだけ嫌になった。
この世界では、正論がいつも少し寒い。
夜、俺は倉の脇に寝場所を与えられた。
家の中ではない。納屋のような小屋だった。藁が敷かれ、古い筵が一枚ある。濡れた服は火のそばで乾かしてもらったが、完全には乾いていない。作業着の代わりに、粗い麻のような着物を渡された。
慣れない。
袖も裾も落ち着かない。
スマホはなかった。
胸ポケットも、ズボンのポケットも、工具入れも探した。川で落としたのか、最初からここへ来るときに消えたのか分からない。財布もない。免許証もない。
現代につながるものは、ほとんど消えていた。
残っているのは、濡れた作業着、長靴、折りたたみナイフ、小さな工具、そして芋。
俺という人間を証明するものより、芋の方が多く残っている。
薄情な宇宙だ。
小屋の外には弥太が座っていた。もう一人、五郎という中年の男もいる。二人とも槍ではなく棒を持っているが、殴られれば普通に痛い。
俺は筵の上に座った。
眠れる気がしなかった。
外から村の音が聞こえる。
犬の声。
誰かの咳。
薪が折れる音。
遠くの川。
夜は暗かった。
本当に暗い。
現代の夜は、どこかしら光っている。街灯、家の窓、自販機、車のライト。ここにはそれがない。火が消えた場所から、すぐ闇になる。
俺は膝を抱えた。
寒い。
川に落ちたせいだけではない。
自分がどこにも帰れないかもしれない、という考えが、体の内側から冷やしてくる。
そのとき、小屋の戸が少し開いた。
弥太の声がした。
「誰だ」
「私」
千代だった。
「何しに来た」
「芋の人に用」
「夜に来るな」
「じゃあ昼ならいいの?」
「そういう話ではない」
「爺さまには言ってある」
弥太は沈黙した。
たぶん嘘だ。
でも、通した。
千代は小さな包みを持って入ってきた。
「起きてる?」
「寝られると思いますか」
「思わない」
彼女はそう言って、俺の前に座った。
包みを開く。
中には、昼に煮た芋が一切れあった。味噌が少しついている。
「これ、残ってた」
「植える分は?」
「これは傷物。食べる方」
「なら、いいです」
俺は受け取った。
冷めた芋だった。
味噌も乾きかけている。
口に入れると、昼より固かった。でも腹に入る。体が少しだけ落ち着いた。
千代は俺が食べるのを見ていた。
「泣かないんだね」
「え?」
「川から来て、知らない村で、見張りつけられてるのに」
「泣いた方がいいですか」
「いや。泣かれると困る」
「なら泣きません」
「変なの」
千代は膝を抱えた。
小屋の中は暗い。戸口から入る月明かりだけが、彼女の横顔を薄く照らしていた。
「あんた、本当はどこから来たの」
「佐久です」
「ここも佐久」
「俺の知ってる佐久とは違います」
「遠いの?」
「遠いです」
「山の向こう?」
「たぶん、時間の向こうです」
言ってから、馬鹿みたいだと思った。
千代はしばらく考えた。
「よく分かんない」
「俺もです」
「帰りたい?」
答えようとして、喉が詰まった。
帰りたい。
当たり前だ。
畑がある。家がある。軽トラがある。出荷の予定がある。冷蔵庫には昨日の味噌汁がある。スマホには未読の連絡があるかもしれない。電気もガスも水道もある。
どうでもいいようなものが、急に全部遠い。
でも、帰りたいと言ったところで帰れるのか。
俺は手元の芋の皮を見た。
「分かりません」
千代は何も言わなかった。
その沈黙が、妙にありがたかった。
慰められたら、たぶんきつかった。
少しして、彼女が口を開いた。
「あたし、昔、弟がいたんだ」
俺は顔を上げた。
「冬に死んだ」
千代は膝に顎を乗せたまま言った。
「食べるものがなくて。母ちゃんもそのあと、すぐ死んだ。爺さまは、あれは仕方なかったって言う。みんな仕方なかったって言う。米も粟もなかったから」
彼女はそこで一度止まった。
外で弥太が咳をした。
「でもさ、仕方ないって言われると、腹が立つんだよね」
千代は笑わなかった。
「仕方ないって言ったら、死んだ方はどうなるのって思う」
俺は何も言えなかった。
昼間、彼女はよく笑っていた。
子どもと口喧嘩をして、弥太をからかって、俺を川芋と呼んだ。
その同じ口で、いま弟の死を話している。
元気な子、という言葉が急に薄くなる。
人は明るいから軽いのではない。
重いものを背負ったまま動ける人間もいる。
千代は俺を見た。
「だから、あの芋が増えるなら、あたしは植えたい」
小屋の外で、風が鳴った。
「毒でも?」
「食べ方を覚えればいい」
「失敗するかもしれない」
「米だって失敗する」
「誰かに奪われるかもしれない」
千代は少しだけ目を細めた。
「それは、米も同じ」
確かにそうだった。
芋だから危ないのではない。
食べ物だから危ない。
人を生かすものは、人を集める。
人を集めるものは、奪われる。
この子は、それをたぶん俺より知っている。
千代は立ち上がった。
「明日、畑を見る?」
「見たいです」
「じゃあ、朝、起こす」
「見張りが許せば」
「許させる」
「強いですね」
「畑は待ってくれないから」
そう言って、彼女は出ていった。
戸が閉まる。
また暗くなる。
俺は筵の上に横になった。
眠れないと思っていた。
でも、いつの間にか眠っていた。
夢を見た。
軽トラの荷台に、芋が積まれている。
俺はいつもの道を走っている。
鹿が出る。
ハンドルを切る。
だが、川に落ちる前に、荷台の芋だけがこぼれていく。
道路に。
畑に。
川に。
知らない村に。
山城の蔵に。
兵の背負う俵に。
子どもの手に。
火の中に。
土の中に。
どこまでも転がっていく。
俺はそれを追いかけようとする。
でも足元の土が柔らかく、膝まで沈む。
土の下から、芽が出ていた。
いくつも。
いくつも。
*
朝、千代の声で起こされた。
「芋の人、起きて」
俺は目を開けた。
小屋の隙間から、白い光が差している。
体が痛い。寒い。腹も減っている。
だが、生きている。
戸の外に出ると、千代が立っていた。髪はもう高く結ばれている。片手に鍬を持ち、もう片方に小さな籠を提げていた。
弥太が不満そうにこちらを見ている。
「爺さまが許した。畑を見るだけだ」
千代が勝ち誇った顔をした。
「ほら」
「ほら、じゃない」
弥太は俺にナイフを返さなかった。
まあ、それはそうだ。
俺は村の外へ連れていかれた。
朝の空気は冷えていた。山の端が明るい。畑には薄く霜が降りている場所もある。土を踏むと、表面だけが少し固い。
千代は斜面の畑を指した。
「ここ、蕎麦のあと」
俺はしゃがみ、土を手に取った。
軽い。
石が多い。
水はけは悪くなさそうだが、肥えた土ではない。
でも、じゃが芋ならいけるかもしれない。
いや、いけるではない。
やるしかない。
畑の向こうには、山が連なっていた。
どこかに真田がいる。
どこかに武田がいる。
どこかで、兵が動いている。
でも今、目の前にあるのは、石の多い痩せた畑だけだった。
千代が隣にしゃがむ。
「どう?」
俺は土を握り、指の間から落とした。
「悪くないです」
「植えられる?」
「春になったら」
「じゃあ、それまで何するの」
「芋を腐らせない。食べすぎない。畑を決める。土を作る。村の人に食べ方を覚えてもらう」
「忙しいね」
「農業なので」
千代は笑った。
その笑い声に、朝の畑が少しだけ明るくなった。
俺は土の上に、指で線を引いた。
畝の向き。
水の逃げ道。
種芋を置く間隔。
千代が真剣に見ている。
弥太も少し離れて見ている。
いつの間にか、子どもが二人、畦の向こうに立っていた。
老人も来ていた。
俺は指を止めた。
皆が見ている。
芋ではなく、俺の手元を。
俺は急に怖くなった。
知らない時代に来たからではない。
この人たちが、信じようとしているからだ。
信じるものを間違えると、人は死ぬ。
信じさせた側も、無傷ではいられない。
千代が言った。
「春原」
「はい」
「続き」
俺は息を吐いた。
そして、また土に線を引いた。
畑の土は冷たかった。
指先がすぐにかじかむ。
それでも、線は引けた。
芋はまだ籠の中にある。
芽も出ていない。
けれど村はもう、少しだけ動き始めていた。




