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第1話 川より来たりし芋

鹿を避けて川に落ちた現代農家・春原直人が目を覚ますと、そこは十六世紀半ばの信濃佐久だった。

軽トラもスマホもない。

持っていたのは、川に散らばったじゃが芋だけ。

飢えた村人たちは、その奇妙な芋を疑い、恐れ、やがて口にする。

食べれば今日を生きられる。

だが植えれば、来年の命が残る。

ただの作物だった芋は、村の冬を支え、真田の山へ渡り、やがて兵糧となり、伝承となっていく。

これは、銃も火薬も持たない男が、戦国の片隅で芋を植え続ける物語。

歴史を大きく変える話ではない。

けれど、誰かが帰る道の石を一つどける話である。

戦国×農業×真田×兵站×救荒作物。

地味な芋が、腹と歴史を少しだけ支える。

 佐久の秋は、土の匂いがする。


 朝露の残る畑に試しに鍬を入れると、黒い土が割れ、その下から丸いものがごろりと顔を出した。まだ湿っていて、ところどころ薄く皮がめくれている。手袋越しに持ち上げると、ずしりと重い。


 悪くない。


 いや、かなりいい。


 俺は腰を伸ばし、軽トラの荷台を見た。


 男爵。メークイン。少しだけキタアカリ。


 コンテナはもういくつも積み上がっている。荷台の上で芋が互いにぶつかり、乾いた音を立てた。


「今年は上出来だな」


 独り言を言うと、浅間山の向こうから風が降りてきた。


 佐久の風は冷たい。十月も半ばを過ぎれば、朝は指先がしびれる。春先の霜には毎年泣かされるし、夏は夏で雹だの干ばつだの、山の天気は好き勝手をする。農業というのは、自然相手の仕事などと綺麗に言われるが、実際はだいたい理不尽との長期戦だ。


 それでも、芋は出る。


 土を掘れば、出る。


 人間よりよほど律儀だ。


 昼過ぎまでかかって掘り上げた芋を、俺は軽トラの荷台に積んだ。泥を落としきれていないものもあるが、あとで選別すればいい。今日は農協へ持ち込む分と、直売所に回す分と、自分のところに残す分を分ける予定だった。


 エンジンをかける。


 古い軽トラが、喉を鳴らすように震えた。


 シートに腰を下ろし、手袋を助手席に放る。爪の間には土が入り込んでいる。あとで風呂に入っても、たぶん落ちきらない。


 山あいの道を下る。


 道の脇には、ススキが伸びていた。傾いた陽に穂が白く光る。遠くの畑には、収穫の終わった支柱がまだ残っている。山の斜面には、色づき始めた木々がまだらに広がっていた。


 この道は慣れている。


 何百回も通った道だ。急なカーブも、道幅の狭いところも、ガードレールが途切れている場所も知っている。


 だから、油断していたのだと思う。


 茂みが揺れた。


 最初、風かと思った。


 次の瞬間、鹿が飛び出した。


「うおっ!」


 ブレーキを踏む。


 間に合わない。


 反射でハンドルを切った。タイヤが砂利を噛む音がした。軽トラの後ろが横に流れる。荷台のコンテナが跳ね、芋がこぼれた。


 視界が傾く。


 空。


 山。


 ガードレール。


 川。


 荷台から芋が舞った。


 丸い影がいくつも宙を飛ぶ。


 妙にゆっくり見えた。


 次の瞬間、衝撃が来た。


 水。


 冷たい水。


 フロントガラスにひびが走る。胸がハンドルに打ちつけられる。息が抜けた。泥まじりの水が足元から流れ込んでくる。


 シートベルトを外そうとした。


 指が動かない。


 水が膝まで来る。


 腰まで来る。


 芋が一つ、割れた窓から車内に入ってきた。


 泥のついた男爵だった。


 どうでもいいことが頭をよぎる。


 こいつ、種芋にするには少し大きいな。


 水が胸まで来た。


 息が苦しい。


 目の前が暗くなる。


 最後に見えたのは、流れていく芋だった。


 川の中で、丸いものがいくつも揺れていた。


 次に目を開けたとき、空があった。


 青い空だった。


 雲が薄く流れている。


 耳の奥で、水の音がしていた。


 俺はしばらく動けなかった。体のあちこちが痛い。肺の中に砂でも詰まっているようだった。咳き込むと、喉から水と唾が出た。


「げほっ……」


 横向きになり、泥の上に吐いた。


 川原だった。


 小石と砂利。浅い流れ。草の生えた土手。


 俺はずぶ濡れのまま、そこに倒れていた。


 手をついて起き上がる。


 軽トラはない。


 橋もない。


 ガードレールもない。


 電柱もない。


 アスファルトもない。


 代わりに、芋があった。


 そこらじゅうに散らばっていた。


 水に濡れたじゃが芋が、河原の石の間に転がっている。割れたものもある。川の浅瀬に引っかかっているものもある。コンテナは見当たらないが、中身だけが派手にばらまかれたらしい。


 俺は呆然と見た。


 夢にしては、芋が多すぎる。


 ふいに、人の声がした。


「おい」


 俺は振り向いた。


 数人の男が、少し離れたところに立っていた。


 着物。


 いや、着物というより、時代劇で見るような粗末な小袖だった。膝のあたりまでまくり、脚には草鞋を履いている。手には鍬や棒を持っていた。


 その後ろに、女や子どももいる。


 みんな、俺を見ていた。


 いや、俺というより、俺の服を見ていた。


 作業着。濡れたジャンパー。泥だらけの長靴。


 異物を見る目だった。


 男の一人が、ゆっくり近づいてきた。白髪まじりの髭を生やした、痩せた老人だった。腰は少し曲がっているが、目は鋭い。


「お前さん、川に流されたのかい」


 俺は口を開けた。


 声がすぐには出なかった。


「ええ……まあ……そんな感じで」


 自分でも間抜けな返事だと思った。


 老人は眉を寄せた。


「どこの者だ」


「佐久の……」


 言いかけて、止まる。


 ここも佐久なのか。


 いや、そもそも今は何なのか。


 俺はもう一度まわりを見た。


 川の向こうに、田畑が見えた。だが、田の形が妙に小さい。畦は曲がり、道は細い。家らしきものは、草葺きの屋根ばかりだった。


 煙が上がっている。


 木と藁の匂いがする。


 どこにも電線がない。


 冗談だろ。


 老人の隣にいた子どもが、足元の芋を拾い上げた。


「爺さま、これ何だ」


 俺はそちらを見た。


 子どもは泥だらけの男爵を両手で持っていた。


 老人が目を細める。


「さあな。石ではなさそうだ」


 別の男が棒の先で芋をつついた。


「木の実か」


「川から流れてきたのか」


「こいつの荷じゃねえのか」


 視線がまた俺に戻る。


 老人が聞いた。


「これは、お前さんの物か」


「はい」


「何だ」


 俺は少し迷った。


 何と答えればいい。


 じゃが芋。


 それ以外にない。


「芋です」


 沈黙が落ちた。


 子どもが首をかしげる。


「いも?」


「はい」


「これが?」


「これが」


 男たちが顔を見合わせた。


 老人は芋を受け取り、ひっくり返して見た。鼻に近づけ、匂いを嗅ぐ。泥がついているから、土の匂いしかしないはずだ。


「食えるのか」


「食えます」


「生でか」


「いや、生はやめた方がいいです」


 老人の目が細くなった。


「毒か」


「毒というか、芽とか青くなったところは危ないです。でもちゃんと火を通せば食べられます」


 老人の後ろで、女が子どもを自分の背に隠した。


 男の一人が棒を握り直した。


「やっぱり毒じゃねえか」


「違います。違うというか、食べ方を間違えなければ」


「毒の食い物なんぞあるか」


「ありますよ」


 山菜だって、キノコだって、食い方を間違えれば毒だ。そう言えば分かるかもしれない。しかし、この状況で理屈を並べても怪しさが増すだけだった。


 人々は遠巻きにしている。


 川の音だけが続いている。


 そのとき、声がした。


「じゃあ、あんたが食べてみなよ」


 女の声だった。


 俺はそちらを向いた。


 若い娘が立っていた。


 小麦色に焼けた肌。高い位置で結んだ黒い髪。濡れた草鞋の先に泥がついている。袖を肘までまくり、片手に籠を提げていた。


 目が大きい。


 警戒しているのに、妙に距離が近い目だった。


 彼女はずかずかと河原に降りてきて、足元の芋を一つ拾った。


「食えるって言うなら、食べてみなよ。今ここで」


「今ここでって、火がないと」


「火ならある」


 彼女は顎で土手の上を示した。


 そこには小さな焚き火の煙が上がっていた。誰かが山仕事の途中で火を使っていたらしい。


 老人が低く言った。


「千代」


「だって爺さま、毒かどうか分かんないじゃん」


「近づくな」


「もう近づいた」


 娘はそう言って、芋を俺に投げた。


 俺は慌てて受け取った。


「ほら。食べて」


 泥だらけの芋が、手の中にある。


 川から上がったばかりで体は冷えている。頭はまだ混乱している。目の前には、どう見ても戦国時代か、それに近い時代の人々がいる。


 そして俺は、なぜか自分の芋を試食することになっている。


 人生、だいたい予想外だが、これは少しひどい。


「鍋はありますか」


 俺が聞くと、千代と呼ばれた娘は目を瞬かせた。


「鍋?」


「煮た方が早いです。焼いてもいいけど、時間がかかる」


「煮るの?」


「はい」


 老人はしばらく俺を見ていたが、やがて後ろの女に何かを命じた。


 土手の上へ連れていかれる。


 村人たちは一定の距離を保ってついてきた。逃げてもすぐ捕まりそうな距離だ。棒を持った男が二人、俺の後ろに立っている。


 焚き火のそばには、黒ずんだ鍋があった。


 中には湯が沸いている。


 俺は芋を川の水で洗った。泥を落とす。芽はほとんど出ていない。青くなっている部分もない。収穫したばかりだから当然だ。


 包丁はなかったので、貸された小刀で皮ごと半分に切った。


 切り口を見た子どもが声を上げる。


「白い」


「中まで土じゃねえのか」


「土じゃないです」


 俺は芋を鍋に入れた。


 湯の中で、芋が沈む。


 焚き火の煙が目にしみた。


 待つ間、誰もあまり喋らなかった。


 千代だけが、俺の隣にしゃがみ込んでいる。棒を持った男たちは、なぜかそれを止めない。彼女が言うことを聞かないのを知っているのかもしれない。


「あんた、変な着物だね」


「服です」


「ふく?」


「着物みたいなものです」


「変な着物じゃん」


「まあ、そうですね」


「名前は?」


「春原です。春原直人」


「すのはら?」


「はい」


「変な名」


「千代さんは普通ですね」


「さん?」


「……千代」


 呼び捨てにすると、彼女は少し笑った。


「川から来たわりには、口はきけるんだ」


「川から来たわけじゃないんですが」


「じゃあ、どこから来たの」


 答えられなかった。


 佐久から来た。


 だが、ここもおそらく佐久だ。


 俺の知っている佐久ではないだけで。


 鍋の湯が白く濁ってきた。


 俺は小刀の先を芋に刺した。まだ少し硬い。もう少し待つ。


 その間に、老人が口を開いた。


「お前さん、どこの国の者だ」


「国……」


「甲斐か。上野か。越後か」


 俺は息を飲んだ。


 地名が古い。


 いや、古いだけならまだいい。


 甲斐。上野。越後。


 戦国時代の地図が、頭の中で開いていく。


「ここは……信濃ですか」


 老人は眉を動かした。


「そうだ」


「佐久ですか」


「佐久の端だ」


 喉が乾いた。


 俺は焚き火を見た。


 火の中で枝が爆ぜる。


「今は……何年ですか」


 千代が変な顔をした。


「何年って」


 老人が答えた。


「天文の終わりだ。弘治になると、お触れが出た」


 耳の奥で、川の音が遠くなった。


 天文。


 弘治。


 西暦にすぐ変換できない。だが、だいたい分かる。歴史ゲームが趣味だったから。


 十六世紀半ば。


 戦国時代。


 武田信玄が生きている時代。


 真田幸綱も、生きている。


 昌幸も、たぶん生まれてる。


 俺は鍋の中の芋を見た。


 白く煮えた断面が、湯の中で揺れている。


 馬鹿な話だ。


 鹿を避けて川に落ちたら、戦国時代の信濃にいた。


 しかも、持ってきたのはスマホでも発電機でも銃でもない。


 じゃが芋。


 荷台に積んだ、ただの芋。


 俺は小刀で芋を引き上げた。


 熱い。指先で持てず、木の枝を箸代わりにして平たい石の上に置く。湯気が立った。皮が少し裂けている。


 千代が鼻を近づけた。


「におい、変」


「芋の匂いです」


「地味な匂い」


「まあ、派手な匂いではないです」


 俺は少し冷ましてから、芋を割った。


 ほくほくと白い湯気が出る。


 塩が欲しい。


 味噌でもいい。


 バターなど、この時代にあるわけがない。


 俺はそのまま一口食べた。


 熱い。


 舌を焼きそうになる。


 味は薄い。水っぽい。川の水で洗ったせいか、少し泥の匂いもする。


 でも、芋だ。


 確かにじゃが芋だった。


 飲み込む。


 村人たちが息を詰めて見ている。


「食べました」


 俺が言うと、千代がすぐ手を伸ばした。


「じゃ、あたしも」


「待て」


 老人が止める。


 千代は止まらなかった。


 小さく割った芋を指でつまみ、ふうふう吹いてから口に入れた。


 噛む。


 眉を寄せる。


 また噛む。


「……うまい」


 村人たちがざわついた。


 千代はもう一口食べた。


「でも味、地味」


「芋だから」


「味噌つけたらうまいと思う」


「それは絶対うまいです」


 千代は俺を見た。


 さっきまでの警戒とは少し違う目だった。


「これ、どれくらいあるの」


 俺は河原を見下ろした。


 散らばった芋。


 流れに引っかかった芋。


 土手の草の下に転がった芋。


 軽トラ一台分の全部ではない。流されたものも多い。割れたものもある。だが、無事なものを集めれば、かなりの量になる。


「食べる分を残して、植える分もあります」


「植える?」


 老人が反応した。


「これは育つのか」


「育ちます」


「どこに植える」


「畑に。水はけのいいところがいいです。あまり湿りすぎると腐ります。あと、種芋は切って植えられます。芽があるところを残して」


 言葉が勝手に出た。


 春植えなら、霜に気をつける。土寄せがいる。芽かきもした方がいい。連作は避けたい。保存は暗く涼しいところ。青くなったものは食べない。芽は取る。


 話せる。


 話せることが山ほどある。


 俺は農家だからだ。


 それしかできないからだ。


 老人は黙って聞いていた。


 千代は芋をもう一切れ食べている。


 子どもたちは、彼女の口元をじっと見ていた。


 その中の一人が腹を鳴らした。


 小さな音だった。


 でも、聞こえた。


 千代が振り向く。


 老人も振り向く。


 腹を鳴らした子どもは、恥ずかしそうに下を向いた。


 俺は石の上の芋を見た。


 割った芋は、まだ湯気を立てている。


 俺はそれをさらに小さく分けた。


「食べてもいいです。ただ、少しずつ。熱いから」


 老人が何か言おうとした。


 だが、千代が先に受け取って、子どもに渡した。


「ほら。少しだけだよ」


 子どもは恐る恐る口に入れた。


 噛んだ。


 目を開いた。


 それから、急いで飲み込んだ。


 その顔を見た瞬間、俺は胸の奥を変なふうに掴まれた。


 うまいものを食べた顔ではない。


 食べ物を食べた顔だった。


 ただ、それだけだった。


 その違いが、やけに重かった。


 千代が鍋の中を覗いた。


「まだある?」


「あります」


「もっと煮よう」


「全部食べると植える分が減ります」


「じゃあ、どれを食べて、どれを植えるの」


 俺は答えようとして、止まった。


 どれを食べるか。


 どれを残すか。


 そんなことは、いつもやっている。


 出荷する分。自家用。種芋。傷物。規格外。


 だが、ここでは違う。


 食べれば、今日の腹が満たされる。


 残せば、来年の腹が満たされるかもしれない。


 食べるために残す。


 残すために食べない。


 芋は同じなのに、急に重さが変わった。


 俺は河原に降りた。


 村人たちがついてくる。


 散らばった芋を拾い集める。千代も一緒に拾った。子どもたちも、最初は恐る恐る、やがて競うように集め始めた。


 濡れた芋。


 割れた芋。


 傷の浅い芋。


 芽の位置が分かる芋。


 俺は分けた。


「これは食べる。これは植える。これは傷が深いから早めに食べる。これは残す」


 千代が隣で真似をする。


「これは?」


「残す」


「これは?」


「食べる」


「これは?」


「迷う」


「迷うのもあるんだ」


「あります」


 彼女はなぜか楽しそうだった。


 老人は俺たちの手元を見ていた。


 やがて、低い声で言った。


「お前さん」


「はい」


「この芋、村で植えられるか」


「できます」


「増えるのか」


「増えます」


「どれほど」


 俺は答えに詰まった。


 現代の畑の収量をそのまま言っても意味がない。肥料も違う。土も違う。品種も、栽培環境も、何もかも違う。


 それでも、米が作りにくい山の畑で、粟や稗や蕎麦の隙間にこれが入ったら。


 水田にできない土地で育つなら。


 飢饉の年に、少しでも掘れるなら。


「うまくやれば、かなり」


 老人は目を伏せた。


 その横顔に、深い皺が刻まれている。


 飢えを知っている顔だった。


 俺はそれを見て、余計なことを言いそうになった。


 この芋があれば助かる。


 この芋があれば村は変わる。


 この芋があれば、飢えなくて済む。


 言えなかった。


 そんな簡単なものではない。


 芋は腐る。病気にもなる。毒にもなる。奪われもする。誰かが独占するかもしれない。年貢にされるかもしれない。兵糧にされるかもしれない。


 俺はそこまで考えて、頭を振った。


 今は、まだ。


 河原に散らばった芋を拾うだけでいい。


 日が傾いていた。


 集めた芋は、村の籠に入れられた。濡れたものを広げて乾かすため、土手の上に並べる。千代が子どもたちを追い払いながら、傷物だけを別にしていた。


 老人が俺の前に立った。


「春原、と言ったな」


「はい」


「行くところはあるか」


 ない。


 あるわけがない。


 俺は黙って首を振った。


「なら、今夜は村へ来い」


 後ろの男が顔をしかめた。


「爺さま」


「見張りはつける」


 老人は言った。


「だが、このまま川原に置いておくわけにもいくまい。芋も、人もな」


 芋のついでに数えられた。


 まあ、今の俺の価値はたぶん芋と同じ籠に入っている。


 千代が笑った。


「よかったね、芋の人」


「芋の人」


「あんた、川から芋と一緒に来たじゃん」


「もっと他に呼び方ないですか」


「じゃあ、川芋」


「悪化してる」


 千代は声を立てて笑った。


 村人たちの何人かも、少しだけ笑った。


 その笑いはまだ硬かった。俺を受け入れた笑いではない。異物を少しだけ遠くからつつく笑いだ。


 でも、さっきよりは近かった。


 俺は最後にもう一度、河原を見た。


 川の流れは何事もなかったように続いている。


 軽トラはない。


 元の世界もない。


 ただ、拾いきれなかった芋が一つ、浅瀬の石に引っかかっていた。


 千代がそれに気づき、裸足になって川へ入った。


「冷たっ」


 そう言いながら、彼女は芋を拾い上げた。


 水を切り、俺に投げる。


 俺は受け取った。


 小さな芋だった。


 種芋にも、食用にも、少し頼りない。


 でも芽はあった。


 俺はそれを、植える方の籠に入れた。


 そのとき、遠くで鐘の音がした。


 村の方からだった。


 山の影が、畑の上に伸びている。


 千代が土手を上がりながら言った。


「ねえ、春原」


「はい」


「この芋、ほんとに増えるんだよね」


 俺は籠の中を見た。


 濡れた芋たちが、夕日の色を受けて鈍く光っている。


「増えます」


「じゃあ、いっぱい植えよう」


 彼女はそう言って笑った。


 明るい声だった。


 俺はすぐには笑えなかった。


 いっぱい植えれば、いっぱい採れる。


 いっぱい採れれば、いっぱい食べられる。


 それはいいことだ。


 たぶん、間違いなくいいことだ。


 けれど、いっぱいあるものは、必ず誰かに見つかる。


 飢えた人間に。


 税を取る人間に。


 兵を動かす人間に。


 城を守る人間に。


 戦を続けたい人間に。


 俺はその考えを飲み込んだ。


 まだ芽も出ていない芋に、そんなものを背負わせるのは早すぎる。


 千代は籠を抱え、村へ向かって歩き出した。ポニーテールが背中で跳ねる。子どもたちがその後を追う。老人はゆっくりと歩き、男たちは俺を囲むようにして進んだ。


 俺は振り返らなかった。


 川の音だけが、背中に残った。


 その日、信濃の小さな村に、まだ誰も名を知らない芋が入った。


 飢えをしのぐための芋だった。


 土に埋めれば増えるだけの、ただの作物だった。


 少なくとも、そのときは。


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