第7話 銀雪の破壊獣と満月の夜~その巨大なモフモフは、完全にサイベリアンでした~
聖王国領、辺境都市リーゼン。
その堅牢な防壁の上では今、絶望的な光景が広がっていた。
「ひるむな! 全魔導弓、装填急げ! 魔導師部隊は防御結界の出力を最大まで引き上げろ!!」
辺境都市の防衛を預かる騎士団長が、血を吐くような声で叫ぶ。
防壁のすぐ外側。
二つの満月が照らし出す荒野に、山のように巨大な『獣』が君臨していた。
体長は優に十メートルを超える。全身を覆うのは、月光を反射してキラキラと輝く、恐ろしいほどに美しい銀白色の長い被毛。そして、吹雪の夜を思わせる透き通ったサファイアブルーの双眸が、眼下のちっぽけな城壁を冷酷に見下ろしている。
数百年の眠りから目覚めた神話級の変異体、『銀雪の破壊獣』。
ひとたびその口から絶対零度の息を吐き出せば、この街など一瞬で氷の彫像と化し、砕け散るだろう。
「だ、駄目です団長! 奴が放つ吹雪の魔力だけで、こちらの魔法陣が凍りついて起動しません!!」
「クソッ……! なぜこんな化け物が、突然この街に……!」
絶望が騎士たちを包み込んだ、その時。
「すいませーん、ちょっと通りますよー。あ、そこ足元気をつけてくださいね」
「う、うむ……って、あんた誰だ!?」
殺気立つ防壁の階段を、ひょいひょいと登ってくる場違いな人影があった。
見たこともない布地のワンピースを着た女性――珠子である。
彼女は両手で大事そうにガラスのピッチャーを抱え、重武装の騎士たちの間を縫うようにして、防壁の最前線へと歩いてきた。
「こらっ、民間人は危険だ! 早く避難所へ……」
「わぁ~、ここ、すっごく月明かりが綺麗! 満月のエネルギーがダイレクトに降り注いでるね! よし、ムーンウォーターの特等席はここに決定!」
珠子は騎士団長の制止も聞かず、防壁の縁の最も月光が当たる場所に、コトンとガラスのピッチャーを置いた。
そして両手を合わせ、「美味しくて波動の高いお水になりますように!」と目を閉じて祈り始めた。
「な、何をしているんだあの女は……狂っているのか!?」
騎士たちが唖然とする中、防壁の外にいる銀雪の破壊獣が、大きく鼻を鳴らした。
『グルルルルゥゥ……ッ!!』
大気が震え、騎士たちが恐怖で腰を抜かす。
破壊獣は、街の中から漂ってくる『幻の香木(=特級キャットニップ)』の匂いにイライラしていた。匂いの元へ行きたいのに、目の前の邪魔な石の壁(防壁)が邪魔で入れないのだ。
破壊獣は苛立ちと共に、巨大な前足を高く振り上げた。
城門を一撃で粉砕する、災厄の爪撃。
その前足が振り下ろされようとした、まさにその真下に――ムーンウォーターの祈りを終えた珠子が立っていた。
「珠子ォォォォォォォッ!!」
遅れて防壁に駆け上がってきたアディが、絶叫と共に剣を抜いた。
だが、間に合わない。圧倒的な質量を持った獣の爪が、珠子の頭上に迫る。
しかし。
「……ん?」
珠子はふと顔を上げ、迫り来る巨大な前足……もとい、肉球を見た。
「うわぁっ!!」
珠子は歓声を上げた。
「見てアディちゃん!! すっごく立派な、長毛種の巨大猫ちゃんだよ!! 銀色の被毛にブルーの瞳……まるで、私が昔から大好きだった『サイベリアン』そっくり!!」
「は……? さいべり、あん……?」
アディも、周囲の騎士たちも、珠子の口から飛び出した謎の言葉に思考を停止させた。
「ダメだよー、猫ちゃん。そんなにイライラして爪なんか立てちゃ。オーラがささくれ立ってるし、呼吸も浅い。これは完全にチャクラが乱れてる証拠だね!」
珠子は、振り下ろされつつある巨大な爪に向かって、一切の恐怖を持たずに両手を広げた。
「おいで! お姉さんが『アニマルヒーリング』してあげるから!!」
――ピタッ。
信じられないことが起きた。
防壁を粉砕するはずだった破壊獣の巨大な前足が、珠子の頭上わずか数センチのところで、ピタリと止まったのだ。
『……?』
破壊獣のサファイアブルーの瞳が、不思議そうに細められる。
この獣は、高次魔力生命体である。ゆえに、相手が放つ魔力や敵意には非常に敏感だ。
今までの人間たちは皆、自分に向けて「恐怖」や「殺意」のオーラを放ってきた。だから敵として蹂躙してきた。
しかし、目の前にいるこのちっぽけな雌の人間からは、敵意も恐怖も一切感じられない。
それどころか、彼女の全身からは、暴力的と言えるほどの純粋な『愛と肯定の光属性マナ(スピリチュアル的には慈愛の波動)』が、太陽のように溢れ出していたのだ。
さらに、彼女の服からは、破壊獣が求めてやまないあの『世界樹の枝分かれ(ベッド)』の残り香がプンプンと漂っている。
『ニャ……?』
破壊獣から、戸惑うような高めの鳴き声が漏れた。
「わぁっ! やっぱり子猫ちゃんだったんだ! 迷子になって寂しかったんだね、よしよし!」
珠子は、自分より大きな獣の鼻先に向かって、迷うことなく手を伸ばした。
そして、その冷たく湿った巨大な鼻を、ポンポンと優しく叩いた。
「ヒッ……!!」
騎士団長が声にならない悲鳴を上げる。伝説の破壊獣の鼻面に触れるなど、自殺行為以外の何物でもない。
だが。
「ほら、深呼吸してー。宇宙のエネルギーを感じてー。そうそう、いい子だねぇ」
珠子はそのまま、破壊獣の巨大な頬のあたりに両手を当て、ワシャワシャと撫で回し始めた。彼女の手から放たれる『レイキ(純粋魔力)』が、獣の凝り固まった魔力回路を心地よくほぐしていく。
『ゴルルルルルル……』
破壊獣の喉の奥から、地鳴りのような音が響き始めた。
威嚇ではない。あまりの心地よさに、思わず『喉を鳴らして』しまったのだ。
「えへへ、気持ちいい? ここが凝ってるんだねー。あ、すごいモフモフ! 冬毛がしっかり生え揃ってて最高! ねぇアディちゃん、触ってみて! サイベリアンみたいにダブルコートでフワッフワだよ!」
「触るか馬鹿者ォォォォ!!」
防壁の上で、アディはついに膝から崩れ落ちた。
(対象は、単体で国家を滅ぼす神話級の災厄だぞ……。それを、いかなる精神支配の術式も用いず、ただ『愛情』という名の超高密度マナを直接流し込むことで、強引に『飼い猫』として脳内を書き換えているというのか……!?)
アディの論理的解釈は、もはや悲鳴を上げていた。
『アニマルヒーリング』。それは、対象の獣性を根本から否定し、宇宙の愛とやらで強制的に骨抜きにする、極悪非道な洗脳魔法だったのだ。
「よーし、お顔のチャクラが整ったから、次は肉球のデトックスだね!」
珠子は破壊獣の巨大な前足(防壁の上に乗っている)に抱きつき、そのプニプニした部分に顔を埋めた。
「すー、はー、すー、はー! ……んん~っ、香ばしい! お日様とポップコーンみたいな、すごく波動の高い匂いがする!」
伝説の破壊獣相手に、まさかの『猫吸い』である。
これにはたまらず、破壊獣も完全に陥落した。
『ニャァァァァァン……♡』
巨大な身体をクネクネとよじらせ、防壁の縁にゴロンと腹を見せて寝転がってしまったのだ。その衝撃で防壁が少し揺れたが、もはやそこに敵意は微塵もない。
「ふふっ、甘えん坊さんだね! あんた、お名前は?」
『ニャオ』
「そっかー、名前ないのか。じゃあ、あなたのお目々、お星さまみたいに綺麗だから……『シリウス』って名前はどう?」
珠子が名付けた瞬間。
光の粒子が舞い散り、破壊獣の首元に、不可視の魔力による『隷属の首輪(使い魔契約)』がガッチリと形成された。
「真名」を与えることによる、最上位のテイム術式が成立してしまった瞬間であった。
「よし、シリウス! お外は寒いから、うちのサロンに来る? ふかふかのベッドがあるよ!」
『ニャーン!!(行く!!)』
シリウスは嬉しそうに立ち上がり、大きな舌で珠子の顔をベロリと舐めた。
防壁の上では、騎士たちがポカンと口を開けたまま、石像のように固まっていた。
「だ、団長……。あの化け物、今、あの女性に飼いならされました……よ、ね?」
「……見なかったことにしろ。あれは、我々が関わっていい次元の存在ではない」
騎士団長は、静かに空を見上げた。
かくして、辺境都市リーゼンを襲った最大の危機は、一人のスピリチュアル女子による「モフモフへの愛(猫吸い)」と「ムーンウォーターのついで」によって、一滴の血も流れることなく解決してしまったのである。
「さあ帰ろっか! アディちゃん、なんでそんなに胃を押さえて震えてるの? 冷えた?」
「……お前の、その常識外れな精神構造に、私の心が冷え切っているんだよ……っ!」
こうして、超高級な幻のベッドに釣られてやってきた災厄の神獣は、看板猫『シリウス』として、珠子の出張サロンに正式に加わることとなった。
珠子の無自覚なチート伝説は、さらにモフモフ成分を増して加速していく。




